感情タイプ・思考タイプ
不思議なことですが、「違う」という方向が究極的に行き着く先は「同じもの」ということなのです。
また「なぜ?」と分析していくことをつきつめると、結局すべてを受け入れるという、ありのまま、そのままでよい(分析しない、思考しない)ということにもなります。
ところで人間には4つのタイプがあると言われています。
これはタロットにおいても物事が四大元素でわけられることからも理解できます。
しかし、大きくわければふたつとなり、それは陰陽や男女で表されますが、別の観点からすれば感情タイプと思考タイプにわけることもできるかもしれません。
平たく言えば、心や感じでとらえたほうがわかりやすいか、論理や型・言葉などで考えたほうが認識しやすいのかの違いです。
この2タイプは女性的・男性的とも考えられますが、必ずしも実際の男性・女性での違いとは限りません。男性の中も感情タイプが存在し、女性でも思考タイプとなることがあります。
ともあれ、こうしたタイプの違いによって、時には関係性・考え方・行動において矛盾したり、対立したり、葛藤したりします。
やっかいなことに(実はやっかいどころか恩恵なのですが)、一人の人間の中にもこのふたつが存在しているため、片や思考、片や感情というふたつが自分の中で渦巻き、選択で悩むことを誰しもが経験していることでしょう。
ところがですね、この思考と感情も究極的には「同じ」ところに行き着くのです。これが冒頭に述べたことでもあります。
たとえるならば、ある科学者が宇宙の謎を追究しようと、地球の素材から隕石に至るまで、物理的に細かく分析して見ていくうちに、大宇宙の構成を知り、自分がその一部であることを科学的にも実感したことで、神(宇宙)の真理に感応するという感じでしょうか。
私たちはなぜ?ということを突き詰めると、結局それ以上分析することのできない限界に到達します。そこはもう感覚や感情の世界と言ってもよいでしょう。
あるいは、調べれば調べるほどあまりに整然かつ完璧である仕組みに気づき、やはり大いなるもの・神の存在を想定しないと統合がとれなくなってスピリチュアルリティに至る、と例えることができます。
ですから、自分が普段感情や感覚的なもので理解するタイプか、思考や分析・理由を通して認識していくタイプなのかは、結局ところ、真理への到達の道としては、どちらでもよいと言えます。
もととも気質的にもって生まれた自分のよい特徴(表現)だと思えばよく、これは相性みたいなものですので、物事を把握するには自分の特質で行う方が楽と言えます。
ただ、違うタイプを理解するには、違うタイプの把握の仕方を経験することも大切です。
どちらも自分はもっているので、それは可能です。もともと得意かそうでないかの違いだけです。
開発したり、訓練したりすれば、別のタイプの方法も身につける(というより、発現すると言ったほうがよいでしょう)ことができます。
要は方法論で正しいか正しくないかを決めのではなく、どれが合っているか、好きかなどでとらえ、至高(目的)への過程での選択の問題だと考えればよいということです。
コメントを残す