自分のためか人のためか、愛の広げ方。
私たちは、「他人ためか自分のためか」と、何かをする時に悩むことがあります。
ただ、おそらく悟りを開いたくらいの超越的な人間でない限り、そのどちらかが100%になることはあり得ないのではないかと想像できます。
なにがしかの割合で、人のためか自分のためかが含まれ、それが混交していることが普通でしょう。
ところが、この「人のためか自分のためか」という定義も、深くつきつめていくと、結局どちらも同じことであることに気がつきます。
100%の自分のためは、100%の人のためになっているということです。
ただしこの「自分」というのは、世界や宇宙的な規模での自分まで拡大した意識であり、エゴや欲望で固められた狭い範囲の自分ということではないのです。
ですから人のためであれ、自分のためであれ、それがリンクしていること、関連していることを見い出して行動する必要があります。
つまり、自分のためが他人のためであり、他人のためが自分のためになっているという「その関係性」を発見することが重要なのです。
普通はその関係性をつなげる発想が思いつきません。
ですが、たとえば自宅近くの道路の清掃をするという場合でも、もちろん自分の家の近くですから、そこを掃除することは自分が気持ちよく過ごしたいという「自分のため」がありますが、広く考えると近所やその道を通る人たちの「他人ため」になっていることにもなります。
この時、「関心ですねぇ、お掃除されるなんて」と人から褒められても、へそ曲がりのように、「いや、私はただ自分のためにしているだけです」と言うと(考えていると)、狭い世界のままに閉じこもったままになります。
また、「オレが近所を掃除してやっているんだ、有り難く思え!」という「人のため」を極端に強調する場合も無論、狭い世界から抜けられません。
それから自分ではまったく自分のためと思っていた行為が、人からは感謝されたり褒められたりすることがあります。その場合は、やはり見方を変えればあなたの行為は人のためになっていたのです。
反対に、人のため世界のためと思ってやっていたことが、ほとんど感謝や注目もされず、かえって批判されるようなことがあるなどして、結局ものすごく利己的だったということもあります。
自分のためにやっていても、人や世界のためになっているその関連性を意識して行動すること、その反対の、人のため世界のためと思って行うことでも、それは自分のためにもなっていることを発見すること、その両者を意識して繰り返しして行うことで、狭い範囲の愛から大きな愛に無理なく広がっていきます。
自分の気持ちを殺して利他的にふるまうことや、損得ばかりで自分中心に動くことは、結局自分の小さな世界観から脱出することができなくなるのです。
自分のためと人のためとの「つながり」と「関連性」を見つけるには、整理された「象徴体系」を使うと便利です。ここにマルセイユタロットが活かされるわけです。
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