「審判」に見る「祈り」
マルセイユタロットに「審判」というカードがあります。
一般的なタロットもたいていはこのカードがあります。その名前からしてキリスト教的な意味合い(最後の審判)が強い気がしますが、本来的には別のことが描かれていると考えられます。(マルセイユ版の場合)
また「審判」といえばジャッジする(される)ような印象もありますが、確かにそういうことも象徴されるのですが、同じ大アルカナでも「正義」もジャッジ的な色彩があり、その違いを理解することで、「審判」でのジャッジの意味が際立ってきます。
それはともかく、今回はまた別の観点を述べたいと思います。
マルセイユタロットの「審判」の絵柄をよく見ると、二部構成になっていることがわかります。
それは下の人間のように見える人たちと、上のラッパを鳴らしている巨大な天使との構造です。
実は上に天使、下に人間たちという形では、「恋人」カードも同じで、従ってこの両者には密接なつながりがあります。
しかし「審判」の人間(と見える人)たちは、天使を仰ぎ見ています。手を合わせてまるで祈っているかのようにも感じられます。
ここから、「天使に祈る」という行動が読み取れます。
ここで言う「天使」とは象徴であり、必ずしも天使そのものを表しているのではありません。さきほど二部構成になっていると指摘したように、「天使」とはつまり、人間を超える意識や表現・エネルギーを示すと考えられます。
ある意味「神」といっていいかもしれません。
そこで「天使」を「神」に変えると、前述の文章は、「神に祈る」という言葉になります。これにより、いわゆる「神頼み」がイメージできます。
私たちは何か心配ごとがあったり、叶えたいことがあると神に祈る行為をします。
現実的な人はそんなことに何の意味があるのかと、いぶかしく思う人もいるでしょう。
しかしながら、祈りの効果は結構本当にあります。
たとえ現代の科学的なことで証明されなくても、祈りには心理的には有効な部分があると考えられます。
まず、祈ることで、特に願望の場合は特別に意識することになりますので、ターゲットがオン状態になり、何も考えていない時よりも実現力は強まります。
またこれが最大の効果だと思いますが、「神」という何か崇高で超越的な存在を想定することで、自らが謙虚になり、「預ける」という感覚と安心感が出ます。
もちろん神や天使に願ったからといって、すべて思い通りにはならないでしょうが、少なくとも祈ったことによる安心感(それは何か行為をしたという達成感にもつながります)が得られます。
そしてこれも重要なことなのですが、神のような大パワーと存在を信じることで、実は自分自身が大きな存在と力を得ることにもなるのです。
これは祈ることで神を知り、自分の存在の小ささを知って謙虚になることと矛盾しているように思えますが、実は同じことなのです。
謙虚になるということは、神や宇宙、大自然によって生かされているという意味での謙虚さであり、卑屈になることとは違います。
そして祈らせていただく対象である神を想う時、すべてをお任せする境地に至ると、自分自身を神の大きさに投影した巨大な時空が創造されます。これは、マルセイユタロットでは「愚者」や「吊るし」にも語られている心境です。
結局のところ、神へ祈り、神へ自分をゆだねると、端的に言えば「自分自身が神になる」のです。
ですから祈る時は神と自分を区別するのではなく、聖く巨大で完全な神に自分を預けゆだね、その力が自分とともにあることを感じるとよいのです。
区別しなくてはならないのは、利己的な欲による低次の自己とクリアーな高次の自己(神)です。
従って、祈りの行為は、自己の清浄で崇高な部分と低次で濁っている部分とを選別する行いでもあるのです。
自分と神を低いレベルで区別し、あるいは同一視し、ただ自己の願いを叶えようと祈る時は、「神」に自分をゆだねることができません。この時は先述した選別作業は行われず、形式的な祈りに留まります。
このようなことを考えずとも、単純に「神なるものに祈ることのできる心理的環境を持つ」人と、「神や仏もあるものかと秩序なきこの世と思って、反応のままに生きる」のとでは、生き方や過ごし方、苦楽の感じ方さえ変わってきます。
大いなるものを意識することは、生きる知恵としても実は有効なのです。
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