自分に赦しと許可を与えること。
心理やスピリチュアルな分野でもよく言われることですが、自分に対して許し(赦し)をしたり、許可を与えるということは、時によって非常に大切なことになります。
私たちは知らず知らず、親や社会、自己の体験から得た教訓等によって身につけた様々な規範・ルールと言ったものを持っています。
これは誰もがそうであり、悪いことではありません。生きる上での自然の仕組みみたいなものです。
ただ、それがあまりにも強固であったり、理不尽とも言える縛りになっていたりすると、それは自己の自由(選択でもあります)を制限してしまうことになります。
子供時代はまだ物事の判断力も希薄で、親や大人の言うことを聞かないと難しいところが実際にはあります。自分勝手にしていると、自己の生命に危険が及ぶこともあります。
そのために、自分より上位の人の言うこと、判断、モノの考え方・見方などを採り入れるわけです。
ところが、それは自分への命令にもなっていて、「なになにしてはいけない」というような禁止事項の状態で固着することがあり、ゆえにそれは、大人になって大きな問題になるのです。
さらには親や目上の人が実際に言ったわけではないのに、自分のその時の解釈や防衛反応から、勝手に禁止条項のように掟を自ら生成しているケースもあります。
たとえば、小さい頃に弟の分のお菓子まで自分が食べてしまって、親に怒られたような単純なことが、「兄である自分は、じっと我慢しなければならない」とか、「自分の欲求を通さず、場の調和を重んじることが最重要事項」とインプットされるようになっていたかもしれないのです。
それが学校や社会においても、今度は「弟」や「お菓子」とは別のものに変わって、しかし本質的には「我慢」とか「調和」が第一だと禁止事項として、何度も自分に科して強化していることがあるのです。
このように、何かの許可ができない人は、過去の意外に単純なことが原因であることが結構あります。
ただそれを仮に思い出せないとしても、大人になった自分には、もうその、自分でもわからなくなっている強い掟・ルールを「守らなくてもいいんだ」という許可を自分に与えるとよいです。
すでにあなたは自己判断ができる年齢になっているはずですし、その禁止を守ったところで得もなく、また破ったところで損害もないからです。
この「損害がない」ということを思うのはとても大切です。
なぜなら子供の時や、まだあまり経験の少ない若年の頃なら別ですが、今は自分の身につけた禁止事項を破ったところで、何ら問題がないことを証明する論理的な思考と事実、情報が簡単に得られるはずだからです。
かなり長い間縛られてきた掟なので、それ自体によって盲点とされていることが多いのですが、セラピーを受けたり、心理的・スピリチュアル的セッションを受けたりすれば、意外に簡単にその盲点から解放されることがあります。
一度目が開かれれば(象徴的な「視力」を取り戻せば)、あとはいろいろ方法が見えてきます。
要は「なになしなくてはならない」から、「なになにしてもよい」に思考も変えて行くことです。
だいたい、問題が起こったり、嫌なことだと思ったりすることでも、よく自分の思考を観察すると、たいていは、「なになにしてはいけない」「誰々・何々は、許さない」というような禁止的な考えになっていることが多いものです。
それに気がついた時は、自分を楽にして、「なになにをしてもよいかも?」みたいな形で、ゆるやかに禁止を解いて行きましょう。
これは前にも書きましたが、いきなりの許可よりも、上記のように、「かも?」とか「もし・・・だったらどうか?」というように、疑問系や仮定形を間に入れるとプロセスとしてはよいです。
それから、さらにとても重要なことを言います。
自分が自分に許可を与えて、それが実行されていくと、身の回りの人たちの禁止事項にも許可が与えられ、周囲がゆるやかに解放に向かいます。
つまり自分がしがみついて離していないものを手放すと、現実の人や事柄も動き出すということなのです。
これはまた稿を改めて書いたみたいと思いますが、自分の関係する人がうまくいっていないのには、実は自分が禁止していることが影響しているのです。
それはその人自身への禁止というより、自分の中の自分への禁止事項として関係していることなのです。
あなたが何をつかんで必死に離さないようにしているのかを、今一度、自己観察してみてください。
そのためには象徴というものを学ぶと、内(内的な部分)と外(現れている外的なもの)の照応によって、これを解く手がかりが得られます。
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