「愚者」になることで訪れること。
私たちの普段の暮らしは、(統合的・霊的な)学びと結びついていることもありますが、分離しているところもあります。
特に精神的なこと・スピリチュアルな学びと、現実的な安定ある生活を送るという意味では、まったく別方向の選択を強いられることもあります。
本当は深い意味ではまったく両者とも矛盾することはないのですが、表面的・一面的には確かに相反するように感じられます。
たとえば、占いやチャネリングなどで仕事の決断をすれば、一般的には「おかしな人」「合理的な判断ではない」と見られるでしょう。
世のお坊さんや修験者、宗教家の方などが、悟りや高い境地を目指そうとすれば、ほとんどの場合、一般社会から隔絶された環境を選び、心身を鍛えようとします。
これは単純いえば、俗世間にいては高次が求められないという意味か、もしくはそういう「信仰」になります。
このように、自分を霊的に高めたり、スピリチュアルな発展を目指そうとしたりする場合、実生活・現実的な側面とは相容れないことも出てくることがあるのです。
これをマルセイユタロットで表現すれば、「愚者」の道の選択と言えるかもしれません。
「愚者」といえば、そのまま文字通りに解釈しますと、「愚か者」となります。つまりは、世間や普通の人から見れば、馬鹿者、おしかしな人と見られる人のわけです。
しかしながら、詳細はここでは言及できませんが、マルセイユタロットには、「愚者」となって霊的な完成(あるいは人間の現実を超えた意味での統合と完成)を迎えるという教義があります。
霊的には正道であっても、一般的には「愚かな道」に見えることもあるのです。
これは逆もまた真なりで、世間的にまっとうな道に進みつつ、時に狂気や異常、愚かさをはらむことで、霊的な覚醒の萌芽となることがあります。
また、そのまま反対から解釈して、社会(一般)的に正しく普通の道を進むと、霊的な覚醒が難しくなるということも、一面では述べることができます。
つまり、普通に生き、安定や安全、皆が言うよい道、正しいことをやっていては、なかなか真の意味では自分を目覚めさせることができないのです。
これは何も正しいこと、安全な道を求めてはいけないということではありません。
先述したように、社会的に正しく普通の道を進みつつも、世間の求める形や洗脳に自らを眠らせるのではなく、そうしながらも裏や真実を探究する姿勢を持つとよいという提案をしているのです。
簡単に言えば常識を疑えということであり、たまには自分を突飛な行動に導いてもよいですし、常識はずれ、愚かだと思えることにチャレンジしてみてもよいのではないかと言っています。(ただし、人の迷惑になりすぎたり、法律に反したりすることは問題であり、かえって遠回りな道になります)
そうすることで、強固な枠組み、つまり「眠り」から自分を覚醒させるきっかけにもなる可能性があるからです。
なお、非常識・強烈なことは、それだけリスク(一般的な安定の概念から見ての危険性)も増すことになります。反面ジャンプできる高い効果も期待できます。
ここで問題なのは、仮に冒険しても「失敗した」と後悔したり、人のせいにしたりして自分で責任を取らないことです。あくまで自分の選択と行動には、結果としても責任を持つ意識が必要です。
その上で、現世利益や欲望を満たそうと、愚か者の道を進むことも人によってはアリだと考えます。
ただ本当の目的はそれら(欲望)の充足・満足にあるのではなく、もっと高次の霊的な成長と完成のゴールにあると見て進むのが、タロットの表現する「愚者」ではないかと見ています。
ともかく、どの場面でもあれ、「愚者」化することは、一見バカになっているようで、実は智慧者に変化していることでもあるというのが、マルセイユタロットを扱っていて思うことです。
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