目に見えない情報、スピリチュアルな情報の扱い
人による占いやチャネリング、自己の直感などによって、目に見えない、あるいは通常の意識では知り得ない情報を、私たちは時に得ることができます。
そういったものは一切信じないとおっしゃる方は、そもそも話の舞台(設定)からはずれますので、以降の文章は読まない方がよろしいかと思います。
ですから、ここでは目に見えない情報もある、受け取ることができると仮定しての話です。
それから信じる・信じないの間くらいに立つ人は、結構参考になると思いますので、そのままお読みいただければと思います。
まあ、たいていの人は、一方を完全に信じる、もう一方を全く信じないとした場合の中間ゾーンに位置すると思いますが・・・(そしてこの中間ゾーンの目盛のグラデーションの度合いが、人の個性になります)
さて、結論から言ってしまえば、目に見えない情報は概ね玉石混淆のケースが多いということと、言葉通りではなく、「象徴」と受け取るほうがよいということです。
とはいえ、これもあくまで私の考えですから、皆さんは「こういう意見もあるんだ」というくらいに見ていただければ結構です。
先程の結論に私がしているのには、もちろん理由があります。
私はスピリチュアルな志向をする者としては、どちらかと言えば、やはり男性ですので、論理的なほうだと思います。
ただこの「論理」というのが、世間一般の「論理」ではなく、神秘主義の「論理」とか、表に出ているものとは違う意味での「論理」、または「整合性が取れているか」で考えているのです。
逆に言えば、論理の表現は違えど、整合性という点では同じということです。
そこで参考になったのがタロットであり、またカバラーなどの知識と、そこから得られる直観でした。
たとえば、カバラーでは「生命の木」という象徴体系があります。(厳密にいえば、この「生命の木」も、おそらく狭義のカバラーとは言えないとは思いますが、ひとまず大きな意味でのカバラーとしておきます)
「生命の木」では10個のセフィラーと言われる象徴表現をポイントとして、上から下、下から上へとエネルギーが流れる様を表しています。(もちろんそれだけではありませんが)
この時、上から下へという流れで見ますと、一番頂上の「ケテル」というところから下の「マルクト」と呼ばれる象徴に至るまで、様々な段階と次元を通っていくのが「図」としてわかります。
この「ケテル」が純粋な、いわゆる神の至高のエネルギーだとすると、次第に下降するにつれ、エネルギーが弱まって薄くなっていくことがわかります。(物質的に逆に濃くなっていくと表現できます)
生命の木にふれたことのない人ではわかりにくいと思いますので、もっと柔らかい表現をすると、一種の伝言ゲームだと思えばよいです。
たとえば、人格的にもすばらしく、非の打ち所のない人が、とても人のためになる言葉を言ったとします。
そして、その人から言葉を伝えられた人がいます。
この二番目の人は最初の人にはかなわないまでも、なかなか優れた人で、その言葉をまたある人に伝えようとします。
しかし、最初の人の言葉が高度過ぎてわからないだろうと、あえて良かれと思って、最初の人から伝えられた言葉を少し変えて次の人に伝達しました。
次に聞いた人は、二番目の人には劣るものの、まあまあの良識人で、さらに別の人に受け取った言葉を伝えようとします。
ここでも、その人(三番目の人)なりにわかりやすくして、次の人に伝えました。もちろん良心の気持ちからです。
その次に聞いた人は、いかにも凡人というか、普通に欲望もある、いわゆる人間的な人でした。
伝えられたことは意味がよくわからないものの、「これ聞くと運がよくなるから」と言って、そのまま別の人に伝えました。
さらに今度聞いた人が、少々遊び心のある人で、「これを聞くには、右を向いてからターンした後で聞かないと効力が出ない」と、つけ加えて伝言しました。悪意はなく、単なる茶目っ気からです。
その次の人は悪意のある人物で、「お金をもってきた人だけがこの言葉を聞くことができる、お金は多ければ多いほど、聞いた人の効果はすごくなる」と言って、吹聴しました。
多くの人はその通りにしてしまいました。
さあ、あなたはどの段階で、どの言葉を聞くでしょうか?
このように、たとえメッセージの根源が優れたもの・真実であっても、伝わっていく次元とフィールドによっては、様々に解釈されたり、付け加えられたり、ノイズが入ったりして、「表現」が変わるのです。
「神の言葉」というものがあるとしても、それは人間には直接理解できません。私たちが動物や植物と直接会話できないのと同じです。
ですから、どうすればよいのかといえば、「象徴」や「一部」として受け取るしかないのです。全くの言葉通りとか、言ったままが真実とかでとらえることは、ある意味危険とも言えます。
ですが、そのまま受け取ったり、丸ごと信じても、この世界をゲームだとして見れば、それはそれで有意義なものにはなりますが。
それから、あなたが知ることは知るべきタイミングで知っていることになりますので、告げられる内容は、「今知っていてよいこと」であり、「もっと知りたい」とか、「言われていることがわからない」となった場合でも、時間の経過や経験が蓄積されれば、理解できたり、新しい情報に接したりすることができると思えばよいです。
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