「思い」が「外」に現れる言葉。
精神・スピリチュアル系統の世界では、思いの(外界への)反映は「主語抜き」になると言われています。
「主語抜き」とは、文字通り、「主語がない」ということで、例えば「Aさんが憎い」と思えば、それは主語が抜かれて、ただの「憎い」ということになるというものです。
これだけならまだしも、実はこの「主語抜き」は、「主語が別にある(置き換わる)」のだというのがポイントです。
その主語とは何かと言えば、「私」「自分」です。
つまり、先の例で言いますと、「Aさんが憎い」となれば、「自分が憎い」と変換されるということなのです。
なぜそうなるのかと言えば、ここでいう「私」自分」とは、大きな意味での全体概念としての「私」だからです。
いわば、自分は宇宙であり、人類(いや、すべてのもの)全体を指している「自分」「私」なのです。
ですから、厳密にいえば「私」ではなく、「私たち」と複数表現にしたほうがいいかもしれません。
ただ集合体・複合体のしての「単一」ですので、これまた複数ということではないという考え方もできるのです。
ま、平たくいえば、人類皆兄弟・同一、すべては根源に帰するということです。
従って、他人を批判すれば自分を批判することになり、逆に人を祝福すれば自分を祝福することになるのです。
恋愛などでは、このことは結構当てはまります。よくあるのが相手に対する独占欲です。
「相手を自分だけのものにしたい」と思うと、主語が入れ替わって、「自分を自分だけのものにしたい」ということになりますので、それを相手側から見ますと、「お前はお前だけのものと宣言したのだな、じゃ、オレの入る余地はないな」となるのです。
従ってむしろ相手を解放するほうが、自分を受け入れてもらえる余地が生まれるという理屈です。
また主語抜きと似たようなものになりますが、目的語抜きという現象もスピリチュアルな事象では現れます。
例えば「私はお金を持っていない(私はお金がない)」と思えば、「私は・・・(持って)ない」となって、あなたは何も持たず(運も持たない)、さらにはあなた自身も「ない」となり、自分自身の存在価値がなくなります。
これでは、お金が天から与えられようとしても、あなた自身がいないのではどうしようもありません。
ますます物質社会から遠のき、自ら宣言しているように、お金も集まらなくなるでしょう。
逆に、「私は外国に行きたい」と思えば、あなたは「行きたい」のであり、その行きたい衝動そのものが今のあなたの象徴であると見ることもできます。
結局、何が重要なのかといえば、文章や言葉ではないのです。
その言葉によって表現されている気持ちや波動・質が大事なのです。
極端なことを言えば、理解できない外国語でネガティブな言葉を言っても、あなたがそれを「幸せになる呪文」だと心から信じで唱えていれば、それは幸せ波動になるということです。※ただし言葉の響き・音声などによっては波動が下がるものも確かにあります。
要はあなたはどんな気持ちでその言葉を言い、感情としてどのような思いでいるか(言葉を発するか)が鍵だということですね。
ここがわかってくれば、アファーメーションなどのコツも理解できるでしょうし、よく言われる「月に向かって行うお願い事」の要領もわかってくるでしょう。(マルセイユタロットの「月」はこういったことも、絵柄で暗示させています。なお、私自身は月への願い事はしませんが(苦笑))
あと、これも重要なので言っておきますが、波動や質の良し悪しを判断できるよう、自分のセンサーを高めておくというのも必要です。
しかも人から言われる場所やモノの状態(良し悪し)を鵜呑みにするのではなく、自分自身での基準で判断できるようにしておくことです。
波動自体は共通で普遍的ですが、どうやら感じ方には個性があるようだからです。
それにはスピリチュアル志向の人には逆説的に聞こえるでしょうが、まずは我が儘になることなのです。マルセイユタロット的に言うと、「悪魔」になって「神の家」になるという順序です。
正しく言うと、世間一般の常識や評価に惑わされず、自分の感覚をもっと信じてみましょうということです。それには我が儘になるくらいがちょうどよいのです。
コメントを残す