自力以外の助力を乞う意味。
最近私の中では、急激なグノーシス論(自己の本質認識)の再構築が起こっており、毎日が内的にドラマティックです。外面は普通ですが。(笑)
ところで厳密な意味でのグノーシス論はいろいろな解釈があって、学術的なことを言うと大変細かくなり、下手なことを言えば、異議や批判も受けかねません。
ここで私の言ってるグノーシスとは、学術的なものや歴史観点での思想的ものではなくで、あくまで考え方(のベース)にあるアイデア・発想と思っていただければよいかと思います。
グノーシスの真偽を証明しようとか、歴史的考察をしようということではないのです。特に善悪二元論で語られることの多いグノーシス主義とは趣を異にしています。
私のいうアイデアとしてのグノーシス論は、簡単にいえば「この世の中は実体ではあ.るが幻想であり、自分が神性を持つ創造主(に還ることができる)ということ」です。
この考え方においては、仏教や他の神秘思想などとも共通していると言えます。
さて難しい話は抜きにして、ちょっと「こう考えてはいかがでしょう」という提案をしてみます。
先述した私流グノーシス論では、この世は自分が創造した幻想であり、しかも実体です。
よくこのブログでも言っているように、結局この世は、自分を楽しく味わい、もっと知るためのゲームだと言えます。
とはいえ自分の認識している限りは実体なので、無意味でもなく、虚無なものでもありません。
ここを説明しようとするとまた難しくなってきますので、違う観点で言います。
あなたは自分は完全ではなく、知識も経験も判断力も、また経済的にも物質的にも不足している人間だと思っていませんか?
いえ、私はすべてに満足し、完全です、とおっしゃる方は少ないでしょう。
実は私も完全とは思っていません。(笑) (しかし別のところで完全と思っています)
それでいいのです。当たり前です。だって、どう見ても自分は完全な人間ではないですよね。
それが初期設定みたいなものと思えばいいです。
そして、ここからが面白いのです。
よく成長や発展のためには自分が気付き、行動しなくてはならないと言われますが、それは私もその通りだと思います。
けれども、やっぱりさきほど述べたように、自分は完全でもなければ、いろいろと悩み苦しむ、「ダメ人間」だと感じているところもあります。
理想論としては頭でもわかるところはあるかもしれませんが、そううまく自分を理想には持って行けないのも多くの人の実状です。
そこで、発想の転換です。
あなたは今の思っている自分が自分だと考えていませんか?
実はそうではないかもしれないのです!
あなたが見ている人、あなたが他人だと思っている人、すべてそれも自分(の創造物)だとすれば、その他人が持っている能力・知識・経験・資産等、すべてはあなたのものでもあります。
ただし、だからといって奪っていいということではありませんよ。きちんと他人であると(認識する)いう法則・ルールも働いているからです。
ですが、物質はともかく(一般的には考えにくいでしょうから)、知識などのことは自分のものとして思うことができます。
どうするのかと言えば、図書館や記録媒体のように人を思えばいいのです。自分の代わりに、知識を保存してくれているということです。
必要になれば、その知識や経験をダウンロードしたり、聞きに行ったりすればよいのです。
実は、そのようにあなたが設定しているので、あなたは普段は、「自分はまだまだ未経験」とか「知識不足」だと思うようになっているのです。
そのほうがゲームとして面白いからです。だって、自分が一人で全部知っていたり、経験していたりしたら、そのゲームはつまらないと思いませんか?
ここを逆から考えれば、自分はその時点では知らなくてもOKとなりますし、劣っている、ダメな人間と思っていてもいいわけです。
思えば思うほど、実は反対にあなたの探求と発展の可能性は増えて行きます。
シンプルにいえば、困ったら助けてもらえばいいのですし、何かもっと知りたければ、教えてくれる人や場所もあるということです。
※ただし、教えてくれたり、助けてくれたりしたのに、しつこくねだり続けると、ゲームのキャラクターと同じで成長せず、敵(問題)に遭遇して敗れたり、ひどい時には殺されたり(大問題の発生)するので、得たものを活用して成長する意志と行動という自助努力は必要です。
そのように必ず設定されてあるはずです。なぜなら、あなたはやはりもともとは完全だからです。忘れたふりをして、他人やほかのフィールドを創り出して、あえて楽しんでいるわけです。
設定によって、悪魔もいれば天使もいます。それも自分が創り出しています。
まあ、よくわからない人もいると思いますが、要は自分が未熟だと思っていても、本当はそうではなく、あくまで人生ゲームでの設定の話なので、「完全」目指して(回復ゲームとして)探求して行きましょうということです。
それには自分一人の世界でないように、あらかじめこの世(自分の生きる世界)として設定してきていますから、大いに自分以外の人間・モノ・場所を利用し、活用していけばよいのです。
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