神社に行って内なる神と感応する。
パワースポット巡りが今もブームのように続いているようですね。
ブームになると、アンチの人や批判的に見る人がそれだけ増えるのも、ある意味当然です。
やれ「パワースポットへ行くのは危険」だとか、「実は汚れに行くだけ」とか、「もらう感覚ばかりでかえって運が悪くなる」とか、まあ、いろいろ意見はあるものです。
個人的には、ネガティブに見るこれらの意見のそれぞれにも一理があると思っています。
一方、もちろんパワースポットをそのままパワーやエネルギーがあるところ、それらをいただける場所と考えることも、一面肯定しています。
要は、自分にとって都合のいい解釈をすればいいのです。(笑)
ただひとつだけ基準やルールがあるとするならば、バランス感覚が大切だということですね。何事もやり過ぎや極端なマイナスはまずいものです。
自分が過剰にパワースポット信仰になり過ぎていると感じたり、何でも否定的に考えがちだなあと思ったりすれば、バランス的に修正すればよいということです。
さて、パワースポットといえば神社などが多く言われているところですが、神社ですから、そこには「神様」がおられます。
と、人は考えている、想像しているということですね。ここで実際に「神様」なるものがおわすかどうかは議論しません。
今日言いたいのは、その「神様」が、神社などの社に外の存在としていらっしゃるのではなく、自分の中に実は存在しているということです。
「なんだ、そんなことか、よく言われていることで知っているよ」と思われるかもしれません。
ではなぜ、あなたは神社にお参りするのですか?
自分の中に神がいることを信じているのなら、神社などに行かずとも済むのではないでしょうか。
ここで考察します。自分の中に神がいても、わざわざ外の神社にお参りに行くのは何か意味があるのではないかと。
するとこのことに気がつきます。
行く・お参りする=行動している
ということは、自ら何か行動して「形を示す」ことに意味があるのではないかと思いが行きます。
また家に神棚がある人も多いと思います。当然、ほとんどの人は神棚にお供えし、手合わせることをしているでしょう。ここでも行為・行動が形として示されます。
自分の中に神がいても、行動や形をこの三次元の世界で表すことが、何か霊力の発動に関係しているのではないかと想像することが可能です。
またマルセイユタロット的にはこのようにも考えられます。
マルセイユタロットの教義では、自分の中に神性が内在していると考えています。(あくまで私の採用している説においてですが)
すなわち、神の性質は自分にもあるということなのですから、日本の神社の神々においても、それらはすべて(悪神も)自分の中に、同じ性質を有しているものがあると考えることができます。
天照大神も素戔嗚尊も、全部性質としては自分の中に「ある」のです。その感応や発現装置として神社があり、それぞれの神を祀っている神社に自分が行くことで、自分の中にある同じ性質を発動させることができるという仕組みです。
もちろんそれには個人差や、人間としての個人の特性(レベルの違い・個性)があり、ものすごくその神(神社)に感応する人もいれば、全然何も感じないという人もいます。
奇しくも神社でのご神体は「鏡」であることが多く、自分(の中の神性)を映し出す・転写させるという意味では、理にかなう話です。
ということで、神社に行くのは、一面、自分の神性を感応させたり、発動・表現させたりするためにはよいことと言えます。
同様に、「神」を「仏」として言い換えれば、自分の中にある「仏性」を感応させることになり、その仏様をお祭りしているお寺もよいわけです。
宗教観や民族が違っても、たとえば観音様がマリア様と同じ性質として見ることもでき、世界中どこでもその祀られている神の性質・性格を知れば、自分との感応は可能だということになります。
ちなみにこれのミニバージョンがタロットであるということは、あまり知られていないことです。
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