「運」の巡行・逆行とバランス
「運」の良し悪しという観点からすると、何事もまさに「運がいいこと」と「運が悪いこと」に分かれます。
言わば自分自身で、世界・事象をポジティブとネガティブのふたつに分けているようなものです。
エネルギー的には、ネガとポジという二面は存在すると考えられますので、その見方は大きな意味では間違っていないと言えるかもしれませんが、「いい・悪い」と評価した見方になっているのが問題です。
結局、「いい・悪い」という自分の主観で分けている限りは、真の意味で宇宙的なネガとポジではないと述べられるでしょうし、理解もできていないと分析できるかもしれません。
私がタロットリーディングを指導する時、占い的に吉凶判断を勧めないのは、こうした理由がひとつにはあるからです。
とはいえ、「運」という言葉自体、人間・社会にはあるのですから、昔からそれは目に見えずとも、人々が何らかのものとして感じ、想定してきたのは間違いありません。
無理に良し悪しとしてふたつに分けなくても、生きている限り、私たちは自然に自分にとってよいこと・悪いことを体験しますし、そう感じます。
けれども、これも多くの自己啓発系の本やセミナーで説明されているように、自分の基準・思い込み・価値観・信念のようなものによって、いいか悪いか判断され、色づけされたものです。
「こういう状態がいい・望ましい」「これはダメ」と決めたモノサシや法律が自分の中にあるわけです。それ自体も、ほとんどは生まれてきてからの環境と経験によって形成されています。
自分でもちろん作っているのですが、無自覚に人から植え付けられていることも多く、置かれた環境の身近なモデルから発生しているパターンが少なからず存在しています。
「良し悪し」判断の成り立ちの説明はともかくとしまして、運がよい悪いを感じるシーンは、実はランダムと言いますか、普通は計算が不可能です。
ある価値観や信念があったとしても、それに照らし合わせて判断する現実の出来事の発生の仕組みは、なかなか解明できないということです。
たとえば、ある場所に引っ越したり、旅行したりして、その土地での経験がアンラッキーであるケースと、ラッキーな場合があります。
病気になったり、交通機関が遅れていたり、人間関係がまずくなったりということが起こる反面、すごくスムースに物事が進んだり、すばらしい人との出会いがあったりすることもあるわけです。
これを占い・運命学などで見ると理由がわかることもありますが、本当にそれが正しいのかどうかは、今の科学的的考察にはなじまないものなのでわかりません。
ただこのケースだと、移住したり、移動したりすることそれ自体にいいも悪いも最初はあまり考えていなかったはずです。
いや、強いて言えば旅行や引っ越しに対しては、どちらかというと、皆、ポジティブな思いが最初にはあるのではないでしょうか。
それが実際の行動の中で、良し悪しで判断される経験に変わります。
ここで感情的に体感する「良し悪し」は、自分の信念とか価値観とかも超えた、ほとんど誰もが感じてしまう「良し悪し」ではないかと想像できます。
最初はむしろポジティブにとらえていたくらいですから、それが反転すること(もあるというの)は、自分の信念で判断する以上のものが起こったのだと考えることができるからです。
もちろん自分の信念・価値観によってどんな体験も見方が変わるので、それ(信念体系)を超えたとは言い難いですが、そういうものとは別の、やはり自分のその時持っている特質と合う合わないというようなことで表現できる「運気」というものの影響があるのではないかと感じられるわけです。
川の流れを逆行すればよりパワーが必要なように、あるいは騒がしいところで個人と濃密な会話をしようとしても聞き取りにくくて難しいように、自分のエネルギー(したいこと、欲求の体現するエネルギー)と、その場のエネルギー表現が著しく異なっている場合は、文字通り「自然」にならず、不調和を生み出すという認識です。
ですから、そういうものを「運気」というものであるならぱ、旅先・引っ越し先でのトラブルの例で挙げたようなことも、自分とその場との不調和で考えることは可能です。
これは自分の信念の判断から来る「良し悪し」とは、あまり関係ないことと言えるかもしれません。
ここまで書いてきますと、「ほら、やっぱり運の良し悪しはあるんじゃないの、だったら、占いで最初からそれを避けてよい運気になる道・タイミングを選択したほうがいいに決まっているわ」
と思う方がいらっしゃるのも当然です。
ただ、確かに一時的・短期的にはそうとも言えますが、長期的・大局的に見ますと、そうとも言い切れないところがあります。
というのは、結局、宇宙は調和(二元の力の統合)に向かいますので(というよりもともとそれである)、一見不調和のように見えて、どこかで調和がバランスが取れており、自分自身という観点であっても、その範囲以外の時間か空間においてバランスは計られると考えることができるからです。
例えば、川の流れに逆行すれば、確かにパワーはかなり消費しますが、流れている方向に行くわけですから、何か流れてくるものに遭遇する確率は高くなりますし、こちらに向かってくるのでつかみやすいでと言えます。もしかすると、ほしいものが流れてくるかもしれません。(笑)
また、流れに逆らって動くことで体が鍛えられますし、流れの強弱をより体感することもできます。
さらには時間がかかったことで、注意深く進むこともでき、いろいろなものを新たに発見することになる可能性もあります。
ということで、実は何事も完全にマイナスや悪いということはありません。その時悪いと感じても、必ずどこでいいことはあるものです。
ここで再び信念や価値観の問題ともなってくるのですが、残念ながら、そのいいことを見る目(発見する思い方)がその時のあなたに養われていないと、「悪い人生だった」とずっと嘆き続けることになります。
言い換えれば、不運・不幸というものは、自分の信念体系チェンジによる世界観拡大のチャンスでもあるわけです。(こうしたことは、心理・スピリチュアル系の人にはもはや常識かもしれません)
もっと言えば、喜び・楽しみ・慈しみの方法を広げてくれる(別の味わい方もあることを教えてくれる)機会であり、結局は愛の拡大に自分を後押ししてくれる天(神性なる自分)の働きとも言えましょう。
となると、見た目では幸不幸の機会はアトランダムで計算不可能かもですが、本当の自分は計算ずくなのだと考察することもできます。
川の流れに逆らったばかりに体力を消費してヘロヘロになった、どうしてくれる!ほんとに運が悪い!と思うか、先述したように時間や空間をもっと広く見て、よいこともあって悲惨ではなかったと思うかの違いと言えましょう。
と言っても、あまりに激流に逆らって完全に流され、溺死してしまっては元も子もありません。これは明らかに「悪い」ものと普通は思うでしょう。
でもこれのバランスさえ取られているのではと思えるのです。それは目に見えない世界や、死後の世界観も含んで考えると何とかなりそうだからです。
が、計られ(図られ)はするものの、現実世界の常識世界観では不幸としかいいようがありませんから、当たり前の知識・常識を持つこと、さらには「運気」的なものも考慮に入れた生き方をすることは、やはりうまく現実人生を泳ぐコツと言えるでしょう。
ただそれだけだと、現実レベルのみの話に終わります。現実レベルの何がいけないのかと言われたら、別に何も悪くないのですが、もっと生きながらに別の世界も経験してみたい人や、この世はある種の牢獄というワンダーランド(笑)と思う人もこの世にはいるということです。
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