自らを知るための自己の投影。
心の対話、自問自答によって自らを知るという方法は、心理的にも宗教的にも行われていることです。
しかし、いきなり自分に問いかけても、そこに「いつもの自分」として意識している自分しかいませんので、なかなか難しいことです。
また日常生活で「自分を観る」というようなことは、時間的にも物理的にもやはり困難です。
というのは、ほかの作業があるからで、その時にいちいち、「自分が自分だ」「自分は今、これこれをしているところだ」なんて思っていると、何もできなってしまいます。
ところが、このことがまさに自己認識のヒントになるのです。
日常で自分意識や自らが選択・行動しているというような認識はほとんどしません。
せいぜい、重大な決断をする時か、他人と意見が違ったり、著しく外見が異なったりする環境に身を置かれた時などに「自分」を意識するくらいです。(だからこそ、環境の激変や選択の岐路に立たされている時は、「自分」というものを理解するチャンスでもあり、反面、自己を失う危機でもあるのです)
ということは、日常から非日常の意識状態になるよう自分をコントロールすると、より自己を考察することができるというわけです。
それが孤独で落ち着いた環境であったり、瞑想したりして得る境地だったりします。(静かにする瞑想だけではなく、自分のしている行動をひとひとつ、「自分がやっているのだと意識してみる」という行動的な瞑想の場合もあります)
重要なことは、通常の時間感覚・流れを断ち切っものを創造するということです。なぜなら時間の異質性は空間の異質性も生み出すからです。(その逆も真なり)
同じ環境にいてはなかなかそれができないので、強制モードとして自分が動いたり旅をしたりして、それを確保するほうが楽です。(それゆえ、「愚者」は意識の移行も意味します)
そのような非日常の意識になれるような時空が設定できたら、次に自己洞察のツールを使います。
それが象徴ツールです。言うまでもなく、タロットがこの大きな役割を担います。タロットカードを自分の分身たちと見て、自己投影してみるという方法になります。
別にタロットでなくても、人形でも木でも雲でも何でも自分の内面を象徴すればよいのですが、タロット、特にマルセイユタロットの場合は、人間の元型的なタイプ・パターンをうまく象徴しているので、使いやすいのです。
言ってみれば誰にでもあてはまるように作られているわけで、「まあ、とにかく当てはめてみよう」という時に便利な「自己認識セットツール」みたいなものなのです。
その上で、全員に当てはまるパターンでありながら、自分だけに意識される事柄や表現・感覚・意味というものも出てきます。
ここがものすごく重要で、全体でありながら個別、個別でありがら全体という構造でカードに自己投影していくと、自分の個性を大なるもの(人類全体・宇宙)まで拡大していくことができるのです。
その逆に、より自分が自分として持っている個性というものも理解できます。(これにはマイナス・プラス両面あり)
自分を見るのに鏡が必要なように、投影する装置があったほうが自己認識はしやすいのです。
もちろん人間(他人)そのものでできなくはないですが、生身の人間の場合、投影する人が限定されがちか、逆にあまりに多過ぎてやりづらいのも確かです。だからツールが求められるのです。
ただ、鏡に映った自分が自分そのものではないように(左右逆転であること、あくまで映し出されたものであること)、投影されたものは自分の本質ではありません。
最終的には「自分なんてものはない」とさえ理解できるでしょう。
しかしながら、このタロットに投影された自己は本質ではないものの、今の自分を成り立たせている材料、表現でもあるのです。
いわば、自分の本質がまとった様々な自分というわけです。
ペルソナといえばペルソナですが、ペルソナにもふたつあり、社会的にかぶる仮面(普通に他人や自分が思っている自分)と、今生(人生そのもの)の演出のためにかぶる仮面です。
前者は意識的につけかえることは可能ですが、後者は通常は無理です。ただ、ある種のエネルギーとパワーの回復と、自己に眠る神性の認識が進むと、それも可能になると想像できます。
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