すでに悟ってるという見方。

精神世界系に踏み込んでしまうと(笑)、結局「悟り」ということを意識するようになります。

意識するどころか、目指す人も少なくないかもしれません。

何を隠そう、マルセイユタロットのひとつの見方に、「悟りの道」が描かれていると見る方法があります。

これはとても面白く、興味深いところで、よくお坊さんなどもこのタロットの見方に惹きつけられるほどです。(マルセイユタロットをやっている僧侶の方は、比較的よくいらっしゃいます)

それで、私ももちろんそうしたとらえ方でタロットを観察することはありますが、ある時、ふと逆のことを思いました。

それは、「悟りの道」ではなく、「悟らないための道」でもあるのではないか?と。

「悟らない道」なんてあるのかと思うでしょうが、平たくいえば、悟りや無理して向上を目指さない生き方です。

といっても自堕落で欲望のままに生きるという意味ではありません。いや、もしかするとそれもありなのかも・・・ですが。(笑)

元に戻りますが、なぜそう思ったのか言いますと、タロットの順序を逆から見たり、描かれている人物の視線方向をよく観察したりすると、そのようなひらめきが訪れたわけです。

そう、もしかしたら本当は、私たちは全員悟った存在なのかもしれないのです。悟っているけれども、あえて悟っていないふりをして生きている。一種の記憶喪失の状態です。(苦笑)

わざとやっているのか、何かの事故や仕掛けでそうなってしまっているのかはわかりませんが、とにかく、もともと私たちは誰もが解脱者であり、覚者だと想定します。

すると、もともと悟っているわけですから、無理して人生で悟る修行をしなくてもよくなります。ではどうすればよいのかですが、一言で言えば、「人生をじっくり味わう」ということになります。

ちょうど、映画で自らを主演にさせて演じているようなものです。映画の中の人物は、善人だったり悪人だったりするかもしれませんが、もとの人間(監督・プロデューサー)の人生そのものとはもちろん違います。

これと同様で、私たちは普段は愚かだったり、普通の人間だったり、また悟りたい・発展したい・向上したいと学び、経験を重ねたりして行きますが、それはこの人生設定の中だけ(地球を中心とした世界)の話で、だからこそ、たまらなく悟りたくなる(もとは悟っているので、思い出したくなる)のかもしれません。

言わば、一種の悟りゲームをしていると言い換えてもいいでしょう。

ただ、自由にゲームの外と内を行き来したり、リセットしたりできない取り決めがあり、このゲームに入れば、ある約束ごとが満たされない限り、おそらく何度でも参加し直すことになるのでしょうし、途中で悟りの人に戻ってしまうのもタブー視されているのだと感じます。

一緒にゲームを楽しんでいるのに、急に一人、「オレ、もとに戻るわ」「私、もう飽きたから、悟りにカムバックするね」となると、ほかの人たちが興ざめすると推測します。おそらく高次の魂的にはすべて知っており、がっかりするのだと思います。

またこうとも言えます。

この人生からどんな形であれ、抜けるということ(いなくなる、亡くなること)は、やはり悟りモードの世界に戻ってしまったのだと。(自殺については議論の余地ありですが)

いずれにしても、自分はもともと悟っている(けれどもあえて忘れている)のだと逆説的に思うことで、生き方の意外なヒントが出てきます。

むしろ、そのほうが今を一生懸命生きることにつながるかもしれず、肩の力も抜けて、少なくとも考え方としては楽しい人生になりそうです。

何より、真の意味で人を平等に見ることのできる基準でもあります。

なお、すでに悟っているという見方をすれば、マルセイユタロットは、カードの数だけ人生体験を積みましょう、味わってみましょう、「イッツ ワンダーランド!」の「世界」となります。

※歴史上、悟った人というのもあまり見かけないので、逆にみんな本当は悟った存在で、たまにゲーム中(私たちの現実)に特別キャラとして「悟り人」が出るのではと思うと、意外につじつまが合う気がするのです。

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