情報を発信する人へ。
マルセイユタロットを知るようになって、この世の中は大きく分けてふたつの世界とモノの見方があり、またさらに細かく言えば、多様な世界(観)があり、人の数だけ世界があるのだとわかってきました。
いわゆる表の情報とか裏の情報とか言われるものも、そうした部類に入ります。
究極のところ、どんな情報であれ、自分が信じるか信じないかということでその情報が自分にとって真実と成り得るか、そうでないかの判断のもとになっていると思います。
この信じ方というのが、まさに人によって千差万別なのです。
しかし、これもまた大まかな分類や傾向で見ることが可能で、たとえば古代西洋風に言えば、四大元素別の「信じ方」があります。
一部の例を示すと、「私は実際に体験しないと信じない」というタイプ、「いろいろな情報を整理して、たくさんの人が言っているからそうだと信じる」タイプ、「とにかく、自分の信念に添っているから、あるいは信頼している人からの情報だから信じる」というようなタイプなどで見ていくことができます。
またたいていはそれら(信じ方タイプ)が複合しており、そのうち、一番重きを置くのが「この信じ方」ということが一般的かもしれません。
さて、あの東日本大震災以降、様々な情報がネット・報道・口コミ等で飛び交っています。特に福島の原発問題はその最たるものと言えます。
またそこから派生したり、先頃東京五輪が決定したニュースもあって、日本のこれからについてもいろいろな意見が出されています。
それらを読んでいて思うのは、情報をただ流すだけの人と、「たがら我々はどうすればよいのか」という改善策・対応策を一緒に書いてくれている人の二種類があるということです。
前者の人も後者の人も、情報を仕入れる、与えてもらうという観点からはとても有意義ですが、時に前者の人は私たちを絶望に淵に沈めるか、ただ楽観視させるだけになることもあります。
どうも、よい情報・悪い情報に限らず、それをお知らせする人は自分を情報通と思っているのか、どちらにおいても選民思想というか、そこはかとなく傲慢さを感じます。
「私は真実を知っている、どうだ、教えてやったぞ」というニュアンスが伝わってくるのです。
もちろん、皆さんのためを思って教えてくれている人もたくさんいますし、ただ真実を伝えたいという情熱と謙虚さをもってお知らせしてくれている人も少なくありません。
しかしながら、特に現状を悪い状態として「実はこうなんだ」と知らせる人の中には、日本全体、または一般のささやかなながらも頑張って生きている人たちを突き放すかのような感覚が受け取られます。
いわく、「もうダメなんだよこの国」とか、「こんなバカな国民が信じられない」みたいなものが裏に感じられるわけです。
それは結局、「自分はえらい」「私は違う」みたいな独善的か、反対に投げやりで消極的、タロット的に言うとアーリマン・ルシファー的なものに支配されている気がします。
それから特定の人への怒りが一般の人にも向けられている場合もありそうで、そこに情報を発信している人の個人的な恨みのような感情さえ見ることもあります。
ですから、なるべく皆さんに向けて(現状がまずいことの)情報を発信していたたく方は、その改善策や希望に至る考えを書いていただきたく願います。
別に具体論ではなくても、精神論でもいいと思います。具体策はわからないけれども、こうなってほしいとか、こういう希望があるのでは・・というものでもずいぶん違うと思います。
人を絶望に貶めて、何の得(徳でもあります)があるのかと言いたいわけですね。(そういう役割もこの世の表現としてはあるので、頭ではわかりますが)
絶望状況を知らせるのは、それだけ深刻であるわけですし、絶望なら絶望状況として受け止めねばならない場合もあります。
しかしたとえそのような状態においても、私たちに少しでも気持ちを整理できるもの、納得できるもの、あきらめず、生きていく勇気や力が与えられるものを書いてほしいと思います。
ま、しかし、これも私の感情や我が儘といえばそうでもありますので、単なる一個人の願いとして受け取っていただければ結構です。
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