摩訶不思議と当然性・必然性

人は未知なるものを探求しようという思いがあると、好奇心が起き、心が躍るものです。

簡単に言えば、知らないことを味わうと気分が高揚すると言ってもよいでしょう。

そのため、不思議なこと、もっと言うと、摩訶不思議、魔法、ミラクル・・みたいに思うような現象に遭遇すれば、より一層興奮することになります。

実は占いや、一般的に言われる「スピリチュアル」なことが流行る要因のひとつは、そこにあると見ています。

しかしながら、確かにそれは面白いことかもしれませんが、一歩間違うと、迷信や盲信の世界に陥り、ただ興奮するためだけのショーを味わう結果となりかねません。

マルセイユタロットで、最初の「1」の数を持つ大アルカナのカードに「手品師」というものがあります。

その名の通り、手品をしている人物が描かれているカードです。

手品を見せられると、一般の観衆はその不思議さに興奮し、驚きます。もっと見たいと思うでしょうし、その面白さにお金や物品も提供するかもしれません。

手品のタネを知らなければ、それは魔法だと人々には見えるでしょう。特に手品を初めて見る人や純粋な子供たちは、そのままの手品として見せられた(起こった)現象を信じます。

しかしながら、手品ということを知っている人・大人たちは、それにはタネがあり、本当に何かが消えたり、突然出現したりするわけではないことはわかっています。

それでも興奮するのは、そのタネがまったく想像できない「手品」であり、手品で起こされている事柄が「現実」と錯覚してしまうほどのものを見せられるからです。

一言で言えば、タネや仕掛けがわからないからです。

もし、タネがばれてしまうと、手品師にとっては致命的であり、観衆にとっては興奮は冷めますが、冷静な自分に戻ることにもなります。

ここで考えてほしいのは、手品師も人間であり、一般観衆との違いは、そのタネを知って技術として習熟しているかどうかです。

観衆も訓練すれば手品はできますし、少なくとも、その仕組みや理由が、摩訶不思議な魔法ではないことは理解できます。

手品師も素人ではタネがばれてしまう未熟性がありますが、プロになれば死活問題ですので、決してタネはばれないように演じます。

さらなる有名プロともなれば、手品そのものだけではなく、ショー全体の構成・魅力も増していることでしょう。(「悪魔」のカードと関連します)

要は上には上がいて、その手品は、まさに上に行けば行くほど一般人には魔法と変わらなくなるレベルだということです。

ここで私が述べていることは、「手品師」を例にした、この世界(宇宙)の仕組みを解き明かそうとする順序や心構えを語っています。同時に、人がフレッシュな気持ちに恒常的になるための秘訣にもふれています。

簡単にまとめますと、未知なることに対して関心を抱くことそのものが、人を興奮させ、楽しませるものだという点。

そして、未知なるものにも仕掛け(タネ)があり、ただ表面的に起こっていること、人が言うそのままを迷信的に信じることが成長・真実とは言えないという点です。

ある到達点の先には、さらなる未知なことが出てくることが、ある意味、この世界の「お約束」のようであり、それが「神」の思し召しのようにも感じます。

だからといって、仕組み(理論)を探求していくことが無駄なのではありません。

未知が未知を呼ぶ構造そのものが宇宙であるならば、その意図はただひとつ、好奇心による探求と発見、そこから結果的に拡大・成長・発展している自分自身を見ることだと考えられるのです。

科学の発達とスピリチュアルが、ここに一致するわけです。

「不思議だなあ、面白いなあ」という思いと、「ではなぜなのか?調べてみよう」「理由を説き明かしてやろう」という両方の思いが必要であり、自然に人はそれが生じるようになっている(全体バランスとして)とも言えるのです。

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