人生に意味があるのか?への、ふたつの考え方。

私たちの人生には、すべて意味があるという考え方があります。

そして、それに対してもひとつ、もともとある程度、青写真や大まかな計画表が、生まれる前から設定しており、生まれてからはそれに従い、その場その場を実際の選択にて、人生を現実に創造していると見る向きがあります。

この立場で見ると、やはりどうしてもその設計図を知りたいと思うようになるでしょう。

設計図を知りたいというほどではないにしても、自分(の人生)には使命や目的があり、それに従い生きているのだと思いたくなりますから、では自分の使命や目的とは何だろう?と探したくなるのも当然と言えます。

ところが、通常はそれがなかなかわからないですし、また設計図まで知ろうとすると、もっと困難になります。

そこでいろいろな特殊な技術(運命学・過去催眠等)を学んだり、目に見えないことまでわかるという人に探ってもらおうとしたりします。

こうして全部ではないにしても、、何となく自分が何のために生きているのかを想像することができ、それに叶った生き方をしたり、今までの人生の意味を俯瞰したり、自分の存在の価値を認めたりするようなことができます。

これで生き方が楽になったり、強い意志を持って生きられるようになったりする人もいますので、この考えと方法もよいことはあると思います。

ただ、私はタロットカードを観察している中で、こうも考えられるなあ、というものが出ています。

それは、人生にはもともと意味などなく、また設計図もなくただこの現実というフィールドに放り投げられるだけだと。

えーっ!、今までこのブログとかで語ってきたこととはまるで違うじゃないですか、とおっしゃる方もいるかもしれません。

いえ、これはあくまで、「こうも考えられる」という中でのひとつの発想に過ぎません。ただ、このような考え方も面白く、ある視点を提供できるのではないかということで書いているのです。

もう少し説明していきます。

私たちは、もともと意味の(設定されてい)ない人生フィールドを生きているだけだとすると、一見、目的地もなく、海図や地図も持たずに航海や旅をしているようなものに思えてきますが、実は逆説的ですが、「そうではない」と発想の転換をすることが重要なのです。

その解答の鍵は、「人生をゲームだととらえること」にあります。

簡単に言ってしまえば、目的や使命、地図でさえも、このゲームという人生の中にアイテムというか、宝箱のような形でどこかに置かれており、あるいは、誰かがヒントとして知らせてくれたり、書物とか紙とかに断片が書かれていたりするというようなものなのです。

そう、結局は楽しい(あるいは苦しい?)ゲームとして、私たちはあらゆるツールや情報を用意されているフィールドに、ゲーマーとして参加しているという考え方です。

最初から目的も使命もゴールも設定されていない、特殊で難しいゲームですが、このゲームはすごいことに、自分で目的とか難度とか、ゴールさえゲーム中に設定することのできる、極めて創造性と自由度の高いもので、それだけに高度なのです。

先程、これには目的がないと言いましたが、実は奥底には目的はあり、それは一言でいえば、このゲームを体験すること自体が目的といえるでしょう。

もしかしたら、その意味では、最初からやはりゲーム説明書とか、「こうしたい」というような大まかなゲーマーの意志設計のようなものはあるかもしれません。

とはいえ、ほとんどはゲームの中でも決めていくことができるものなのだと考えられます。

人生が仮に、こうしたものだとすれば、私たちはむしろ、積極的に自分の人生の「意味」を創り上げなくてはなりません

いつまでも意味を見い出していない(創り上げていない)と、ゲームはゲームとしては面白い(現実で起きる現象に反応している面白さはある)かもしれませんが、自己の「キャラ立ち」はせず(笑)、多くの中に埋もれてしまいがちです。

「お前は何のために生きている?」と、ゲーム中の他の人物から問いかけられて、「いや、ぜんぜんわからない」「?」と答えるキャラより、「○○を成し遂げるためだ!」「なになにや、誰それを愛するため」「これこれを作ってみたいと思っている」というキャラのほうが、見ていて注目度が上がりますよね。

あ、別にこれと言った具体的な目的とか使命感がなくても、「オレはただこの世界を思いっきり楽しむことにすると決めたんだよ」と豪快に笑って話すキャラとか、「私はね、目の前の人をどんな人でも愛そうと思っているのよ」なんて、慈しみある目で優しく語るキャラとか、うまくしゃべることができなくても、「・・ただ誠実に生きたいのです・・」とやっと絞り出すように言うキャラとかでも、見ているほうとしてはひかれてしまいますよね。(笑)

この「見ているほう」というのが(ゲームをしているもう一人の真我)であると比定すると、さらに興味深くなります。

スピリチュアル的には、もともとの生前の計画や設計図を知ろうとするのもよいとは思いますが、こうした生まれてしまったフィールドと事象の中で、自分の目的や生き方を「決めていく」のも面白いのではないでしょうか。

後者の場合、自分で自分の生きている(生きてきた)人生の意味を発見していくことにもなりますから、シンクロニシテイとか、関連性を考察するための多角的視線とか、統合的・俯瞰的・抽象的観点とかが大切になってくるのです。

そのために、マルセイユタロットはとても役に立つでしょう。

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