悩んだ時には自分より他人。

タロットの大アルカナに「愚者」というカードがあり、このカードに描かれている人物やカードの象徴からして、いつも人生を気楽に、文字通り「愚者」的に生きて行ければ、ある意味最強とも言えます。(笑)

しかし、そうはならないのがまた人の常なるところです。ちなみに「常ではない」のが「愚者」なので、だからこそ「気楽」なのかもしれませんね。「愚者」以外のほかのカードがあるのも、「愚者」だけでは生きていけない現実性があるからだと思います。

それはさておき、人は悩んだり苦しんだりすると、特に日本人に多いのかもしれませんが、孤独に一人で考え過ぎる傾向があるように思います。

悩んでいることを悟られない・心配させないようにという、周囲に気遣い過ぎることも理由かもしれませんが、とにかく自分を自分の世界の中に過度に入らせてしまいます。

精神や心理の世界でも、「自分との対話をする」という試みがありますが、これもやり過ぎると、やはり孤立した堂々巡りに陥ります。

まじめな人ほど、そうした傾向を持ちますので注意が必要です。

ではとうすればよいのかと言えば、自分(の世界)でダメなら、やはり他人との会話や相談をしてみるということです。

まず単純に、気持ちを外に向けて吐露するということは心の解放につながり、たとえ解決法が見つからなくても、話すだけでもほっとできることもあるからです。

また悩んでいる時は同じことを考え続けているので、実は狭い視野に囚われていることが多く、だからこそ人に話すことで、意外な突破口やシンプルな見方などが得られることもあるわけです。

それから、これがあまり言われていないことなので、書いておきます。(今日のメインみたいなものです)

人は心の鏡とよく精神世界では言われますが、その場合、自分のネガティブな投影として言われることが多く、結構つらい意味になることもあります。

しかし、逆にポジティブや良さとして見ることも可能です。

悩んで人に話をしたり相談したりすることは、他人に自らの内に眠る「あるもの」を自分に呼び起こすための方法のひとつでもあるのです。

そのあるものとは、答えであったり、別の表現方法であったりする、まさに完全なるあなたとしての部分です。

自分の悩みや苦しみは、何かのブロックであったり、気がつかないものがあったり、バランスが崩れていたり、幻想を見ていたり・・と様々にあるのですが、いずれにしても、答えや解決法、あるいはその悩みの真の意味などは、同時に別の自分(高次の自分や別表現の自分)が知っています

しかし、知ってはいるのですが、曇った鏡のようになって見えなくなっているか、答えを知っている自分と対話できないノイズ状態にあると言えます。

自分との対話の結果、うまく答えを知っているほうの自分とコミュニケーションできればOKなのですが、今述べたように、そのコミュニケーション自体が成立しない状況(通信障害みたいなもの)が存在します。

その時、シンクロニシティや象徴的な合図などによって、会話を何とか行おうとするメッセージも内と外の環境投影によってなされるのですが、それでも自分のノイズ状態が激しかったり、状況が悪かったりする時は、なかなかスムースに受け取ることができません。

ここで発想を転換して、他人も自分の投影や別表現の一部だと見ることで、今の自分の悩みの答えや解決策を知っている人がどこかに存在すると考えます。

「投影」ですから、まったく存在が認識できない人ではなく、あなたが目にしたり、会ったりできる人です。時には書物を通しての著者ということもありますが、とにかくあなたのそばに、行ける所に「いる」のです。(探さないといけない場合はあります)

その他人存在は、その人自身があなたの悩みの答えを知ってると表面意識で自覚していることはほとんどないでしょう。

相談ではなく、話すをするということだけならば、あなたが他人と会話する内容も、悩みそれ自身ではない「たまたま」のこともあるかもしれません。

それでも、あなたには他人との会話や相談が、やはりその人からの自分への答えや示唆であることが多いのです。

仮に答えが人との相談で見つからなかったとしても、それは答えに辿りつくための最短の伏線になっている場合があります。

それほど、他人(への話、相談)効果というものは高いものだと考えられます。

ただ、大切なのは、人がしてくれたとか、人がいつも答えをもっているのだと勘違いしないことです。いわばこれが依存の種となります。

そうではなく、本来は自分の中にある答えを見つけるために、外的に投影された面白い仕掛け装置が外に存在していると見るのです。

もちろんこれは他人の技術や知識(への努力・敬意)を否定していることではありません。

自分が表面的にはできないこと(表現)を、うまくしてくれている他人が存在している世界と考えるのであり、その人たちはやはりすばらしいのです。究極的には神の表現を現実的に体現している人たちでもあるからです。(それは全員なのですが)

ということで、一人孤独に、堂々巡りするかのようにずっと自分の中で悩み続けるのではなく、人に話をする、相談してみる、本を探してみるなどという外への発露と行動は、実はあらかじめそうなるように天が配剤してくれているプレゼント企画なのかもしれないのです。

マルセイユタロットでは、「恋人」と「審判」の構造にも思い至ることです。

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