正解はひとつではないという考え方。
タロットリーディングやタロットの解釈にも言えることですが、「答えや正解はひとつ」と考えていると、なかなかうまく行きません。
それはタロットが象徴(の絵柄)でできているものだからです。
では現実は象徴ではないから正解というものがはっきりと出る世界なのか?と言えば、そうとも言えますし、そうではないとも言えます。
というのは、私たちの住む現実の世界ですら、物事として具体的な場合もあれば、やはりそれ自体を「象徴」だと読めることもあるからです。
言わば、記号(それ自体に答えや意味が決まっているもの)や象徴が、両方ある世界でもあるのです。
ただ、それはあくまで見る側の解釈やとらえ方にかかっています。つまり、人間ひとりのひとりの見方によるということです。
ここからしても、世界は自分(のとらえ方・見方)によってできているという説が納得できるものになります。
さて、現実の世界や環境を象徴として見る時、タロットと同じようなことになり、正解がひとつではなくなります。
いえ、実は私の考えでは、「答え」はそれぞれにひとつあるのですが、もっと詳しく言えば、次元・レベル・階層・フィールドによって答えが違ってくるという例えが正しいかもしれません。
次元は縦階層になり、フィールドは横の連続ということになります。
縦の次元というのは、例えば、全体(神性)意識で見ればどうか、個人の現実利益のレベルで見ればどうかといった違いと言えるでしょう。
一方フィールドの横というのは、仕事を中心に見れば、家庭を基軸にすれば、この年齢の選択で言えば・・というようなことになるかもしれません。
こうして考えると、正解など実は多数あり、極論すれば誰もが納得する答えなどはないのだとなります。では探すだけ無駄なのかといえば、それもふたつの考えが出ると思います。
ひとつはやはり無駄なので、つべこべ・あれこれ考えすぎても始まらないという立場や行動を重視するものです。
そうすれば、「こだわり」というものを少なくできます。この見地に立てば、人生は正解を探すことではなく、生きるプロセスそのものを楽しむ・味わうということになります。
そしてもうひとつは、無駄ではないけれども、どのレベルの正解を選択をしていくかを楽しむ、またはその見極めの力を修練するということになります。
そのためには、次元やフィールドの違いを自分自身が知ることが大切です。
フィールド(を増やす)というのは多様な経験になるでしょうし、次元の多層を知るには、「象徴」的見方・感じ方を学ばなければなりません。昔風に言うと、神や天使、仏や菩薩の世界を知るということです。ここにタロットが活かされる余地があります。
結局のところ、私たちは正解があるようでない、ないようである世界を泳ぎ楽しみ、あるところからあるところに移行しながら、同じところに実はいるという感じなのではないでしょうか。(笑)
これはマルセイユタロットで言えば、「愚者」のカードそのものだと言えます。
正解にこだわってしまうと、同時に不正解であることも自分の中で出現させることになります。それが人への批判や自分の内的葛藤を生み出します。
ただ、数学レベルで解答がきちんとあるように、物事のある次元・フィールドにおいては正解はあります。それを見つけることも文字通り、「正解」になる場合もあるでしょう。
矛盾しているようですが、人や世界は一見、矛盾だらけです。ただそれを統合できる考えに至った時、自分自身での正解は見つかるでしょう。
けれどもそれはまた普遍的(万人に当てはまる)正解ではないかもしれません。こうして何重にも正解・不正解、答えがある・ない、個人の正解・万人の正解等の矛盾を行き来しながら、私たちは結局宇宙を意識することになるのだと思います。
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