自分を中心に世界が回っている。

自分なんて、世界から見ればちっぽけなものだ」と思うことがあるかもしれません。

反対に、「アタクシ(オレ様)を中心に世界が回っている」(笑)と極端な言い方をされる人もいます。

タロットには、「世界」と名のつくカードがあり、マルセイユタロットの場合だと、意外にも「吊るし」というカード(一般名「吊るし人」「吊された男」)と「世界」は似たところがあります。

いわば、自分を取り巻く「世界」をどうとらえるのかの違いがカードの「世界」なり、「吊るし」なりで表現されていると言ってもいいかもしれません。

さて、さきほど述べた「自分と世界」との関係の言い方ですが、「自分を中心に世界が回っている」ということに対して、「何様だと思っているんだ!」と嫌悪感を覚えたり、「そんな風に思えたらいいよねぇ・・」とうらやましがったり、あるいはバカにしたりするのが通常の人の感覚かもしれません。

そして冷静になって見た場合、やっぱり「自分なんて、世界から見ればちっぽけな存在だ」と思うことのほうが多いのではないでしょうか。

もっとも、「自分なんて小さな存在」という言い方には、ふたつの意味があると思います。

ひとつは文字通り、自分は小さくて取りに足らない、もっと言えば「存在だけでは価値のない人間だ」というものです。

そしてもうひとつは、あまりに世界や宇宙は広く、その大きさに比べて自分は小さいけれども、逆に「大自然・宇宙・神の偉大さを知る」という謙虚さや感銘から出るものです。

たぶん、そのふたつは誰でも経験があるのではないかと思います。何が言いたいのかと言えば、人はそういうもの(矛盾したり、相反したりする考えをするもの)だということです。

何か大きなものと比べて自分に価値がないと思う場合もあれば、その大きなものに心打たれ、感動することもあるという矛盾のような、そうでもないような人の心の動き・状態があるわけです。

ですから、何かと比べて自分に価値がないと感じてしまうことは誰でもあることだと思っていいのですし、自分より大きな存在・状態に依存してしまったり、感動したり、身を投げ出してしまうような不思議な感覚になったりすることもやはりあるのだと思えばよいのです。

さて、ここで、さらにタロット的に大切なのは、最初に取り上げたもうひとつの自分と世界との関係性のとらえ方です。

すなちわ、「自分を中心に世界が回っている」というものです。

これは先述したように、普通は傲慢に見えたり、馬鹿者の言う言葉に思えたりしますが、タロット的・神秘主義的には真理に近いのではないかと、個人的には思っています。

人には言わなくてもよいのですが(むしろ言わない方がよいかもです)、自分の中では「世界は自分を中心に回っている、できている」と考えることは、違う発想や観点を持つためには重要だと感じます。

天体としても、常識的には地動説ですが、精神世界的には天動説も入れたほうがよいこともあるのです。天動説ならば、自分が観測者であり、観測者を中心に天(天体・星々)が回っていることになるからです。

「自分が世界の中心である」ことの、極めてシンプルな証明というか、こじつけみたいなものがあります。

それは目をつぶれば、外の世界は見えなくなるということです。あるいは音も聞こえなくすれば、さらに確実でしょう。

要は自分が見たり、聞いたり、五感で感じたりできるからこそ、「外に世界があると認識される」のであって、自分の五感がなくなれば、世界は実感として消失する可能性は高いです。

一般的に生きている時に五感がなくなるということはほぼないでしょうが、死ぬと五感はなくなります。(意識も残るのかどうかわかりません)

とすれば、死ぬということは、確実に自分が認識していた世界が消えるということになります。

そうすると、やはり自分が世界の中心であると言えるかもしれないのです。

「いや、死んでも世界は普通にあるじゃないですか」と思う人もいらっしゃるでしょう。

実際に自分の知っている人が亡くなっても、自分や世界は存在していますから、もし自分が死んでも、そのあとの世界は自分がいないだけで存在し続けると考えるのが普通です。それが客観的な事実であり、歴史でもあるからです。

でも、生きている人の世界の中では、誰も自分が亡くなったあとにそのまま世界が存続していると自分で証明することはできないのです。

霊の存在とか、魂の永続性とか、エネルギーの変化とか想定しないと、自分の死後の世界を自分が確認する方法がありません。

とすると、極端に言えば、自分が死ねば自分が信じていた(認識していた)世界は終わります。消失するわけです。

自分を中心に世界が回っているどころか、そもそも世界の存在の根拠は自分自身であったという壮大なオチ(笑)です。

輪廻転生があるとしても、同じ意識と認識でこの世界に生きるという経験は今回限りということも考えられます。

まさに死ぬとすべて(の劇・映画上映)が終わるのだと考えておくと、自分の今の価値の大切さがわかるのではないでしょうか。

自分がいるからこそ人生劇場が上映され続けているのだと思えば、自分の存在そのもの、生きているだけで価値があるとも言えます。

確かに一人の人間は、世界からすればちっぽけな存在かもしれませんが、このように自分は世界の中心でもあると見ることもできるのですから、もったいない人生を送ってしまわないようにしたいものですね。

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