タロットによる世界移行
マルセイユタロットを学ぶことは、実は信じることと疑うことの両方を意味します。
そもそも、タロットを信じるかどうかという、出発の時点からして問題です。
タロットなんかを信じている人は、バカだと一般の人は思うかもしれません。
占いや狭義のスピリチュアルにかぶれた盲信・迷信のカードでしかないと。
おかしなことを言うようですが、タロットを教える私も、そうだと思っているのです。(笑)
いえ正しくは、そうだと思う自分も存在する、あるいは言い方を変えれば、そうだと思う次元に位置することもできるということです。
ですから、もちろんタロットを信じ、信頼している自分も存在します。
私は基本的にタロットを信じている次元に自分を行かせて(生かせて・活かせて)います。タロットを信じずしてタロットを扱えませんし、タロットを教えるなんて、もってのほかです。
しかしながら、タロットを信じない世界があることも受け入れているということです。
正直言いまして、タロットを信じるかどうかは、ほぼ突き詰めてしまえば宗教的感覚に近く、われわれが普通信じる科学と、現実的理解のもとでは、タロットが正しいかどうかなど、証明することは難しいです。
むしろ、間違っている、迷信と断定されるように持って行かれることでしょう。
言ってしまえば、タロットを信じる・信じないは、住む世界の違いなのです。
ですから、同じ土俵(世界内)で議論しても始まらないし、終わらないのです。
さて、幸か不幸か(^_^;)、タロットを信じない世界から信じる世界に移行してきた人は、ここでめでたく(笑)、新たな葛藤の世界にも足を踏み入れることになります。
「めでたく」と言ったのは、この過程をうまく通り過ぎると、すばらしいことが待っているからです。
葛藤(混乱でもある)は、次元移行をスムースに切り替えられないことから起こります。タロット学習の初期には多いことです。
(タロットの世界を)感性で理解しようとしたり、論理で納得させようとしたり、それはもう迷い道です。
ただ、いずれにしても、今まで生きてきた世界の感覚や知識のもとに凝り固まっていては、なかなかタロットの世界を理解することはできません。
タロットはそれだけを見れば、紙に絵が描かれた、ただのカードですが、そのカードに、ある種の意味や象徴を見るのがタロットの活用であり、その状態は物理的な紙を超えた何かとして、別の存在になっています。
これは、現実の形を見ながら、その形そのものとして見ないことでもあります。
現実(と思うもの)を見ながら、そうでないものも見る(思考する、感じる)。この作業をタロットで行っているわけです。
もし、「カードは、あくまでカードに過ぎないじゃないですか、何の意味があるんですか?」と考えるだけなら、その人は普通の常識・現実世界にいる状態になっています。いわゆる「見たまま」の把握です。
ところが別の見方や考え方をもって見ますと、カードはカードではなくなります。
そのためには、カードに描かれた象徴の知識と、自己の感性も交えた直観的洞察が必要です。これが、タロットの世界への次元移行の鍵となります。
ギリシア時代の哲学者プラトン流に言えば、現実のものを見ながらも、その本質そのものであるイデアを観照するということになるでしょう。
イデアを見ようとせずに、ただそのままの世界(カードだけ)を見ても、本質は理解できません。起こっている現象に振り回されるだけです。
タロットを知ることで、常識的・現実的枠の中の見方と、イデアを志向する見方との間で葛藤が起き、時には現実逃避になったり、反対にリアリズムを極端に追求したりする振り子が揺れるようになります。
ところがそれは、タロット的(の理解)には、正しい道を進んでいると言えます。
ふたつの間の世界移行の最中では、葛藤や迷いが生じるのが当たり前だからです。
理想はその両者間の統合や、自在に世界を行ったり来たりできる制御です。これはマルセイユタロットの「力」や「戦車」に関係します。
タロットの世界になじんできた時、モノの見方は確実に変わりますし、別の世界があることを知ります。
その目をもって、優れた芸術や映画・映像などの創作された作品を見ますと、リアリティ(現実感・個人としての実在)を自分の中に感じることができます。
創造や空想のものなのに、現実感を得ることができるのです。
それは逆に、現実の中にも、実は空虚なものもあることが、よりわかってくるようになります。
こうした関係に理解が進むと、非現実(創作の世界)が現実にも効果を及ぼすことに気がついてきます。
これが次元移行をタロットで繰り返して行くことの、ひとつの効果です。
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