使命はあるのか、ないのか。
「使命」という言葉があります。
ビジネスをしっかりやっていらっしゃる方や、強い意志を持たれた人の中には、結構この言葉を使う人がいます。
反対に、自分がよくわからないと思っていたり、自分は何のために生まれてきたのかと疑問を抱いていたりする、いわゆる「自分探し」をしている人にも、「使命」を使いたがります。
いえ、むしろそれを求めていると言えましょう。
前者の人たちは「使命」が見つかった人、後者は使命を探し、追い求めている人と言えるかもしれません。
では、使命はどうのようにして見つけたのでしょうか? また見つけるのでしょうか?
そして、本当に使命というものはあるのでしょぅか?
これらの質問に答えることは難しく、私にもわかりません。
ただし、言えることがあります。
まず使命の発見ですが、これはつまるところ、思い込みの世界と紙一重だということです。
「これが私の使命」と心の底から思えたものが、つまりは使命の発見といえます。
要するに、自分の使命として信じられるかどうか、その信念の強さ・濃さによるということです。
言い方を換えれば、自分を信じる、ある種の自己ストーリーの創設(創造)です。
ところで、マルセイユタロットには「審判」というカードがありますが、このカードは、上空から大きな天使がラッパを鳴らして、下の人たちにまるで何かを告げているように見えるので、「使命」とか「天命」といった意味も象徴されます。
使命とは、このように超越的(神や天使的)なものから下されているもの、運命的に自分が今生で成すべきと決められているものと思いがちですが、実はこの「審判」のカードの奥義では、それとは別の解釈があります。
そこから、使命とは私たちが創造するものという反対の見方も可能です。
「使命」は信念や思い込みの世界に近いと言いましたが、それ(使命は創造されるということ)も同じ意味になります。
言わば、「自分が使命と思えたものは本当に使命となる」ということです。
「使命」というものが「与えられるもの」「特別に選ばれて下されるもの」と考えている限りは、おそらくいつまで経っても、自分の使命は見つからないでしょう。
使命は自ら生み出し、同時に天地人(霊・精神・現実)に相呼応するものであると考えられるからです。
「使命」と「単なる目的」との違いは、その呼応の統一感にあると思います。
つまり、自分だけとか、人だけとか、心だけとか、物事だけとか、一部の目的と満足・達成感で終わらず、自分と人と世界というように、小さなフィールドから大きな範疇へと一本の軸が透徹しているもの、または自分の中で実際の現象と心の中の思いと成長、そして大きな全体性への貢献と発展に寄与していると同時に思えるものだと考えられます。
簡単に言えば、使命をもってやっていることが、単なる自己満足(自己満足は大前提でもありますが)で終わらないということです。
「これがあなたの使命ですよ」と言われるまで待つのは、迷路に陥っている人です。
そうではなく、「使命」を探究しつつ、使命を創造していく見方の逆転も起こして行き(生き)ましょうということです。
タロット的には「使命」は、現実と精神と霊的な世界の三層を貫くので、現実の結果がすべてではありませんし、逆に心のイメージだけのものとも限りません。
誰もが最初は使命を探します。いえ、意識することすらないかもしれません。
最初に述べた、しっかり使命感を得ている人たちでも、初めからそうだったわけではないでしょう。
ですから、使命を探す姿勢が悪いわけではないのです。時には人に尋ねたり、自分が向いているものについてアドバイスを受けてもよいのです。
ですが、使命は与えられるものという受動的姿勢だけではなく、使命を創造することが使命の発見につながるという、逆説的・能動的観点を持つと、使命は得られやすくなるということも意識しておくとよいです。
実は、使命発見(創造)のヒントは、この世界、あなたの生きている現実の世界に無数に存在しています。
とても抽象的なこともあれば、まったく無関係のように配置されていることもあります。
しかし、それらを拾い集める(統合する)視点を持てば、帰納的にひとつの「何か」が光り輝いてきます。
ヒントをたくさん集めると、はっきりとはしなくても、共通事項の核のようなものが現れてくるのです。
その核こそが「使命」として、あなたが信じ、創造したものとも言えます。
使命感を得ることは、自分の人生に意味をもたらせて、情熱をもって生きる礎(タロット的に言えば「神の家」)となります。
自己存在の価値の発見と確立の過程と言ってもいいでしょう。
それは究極的には思い込みの世界ではあるかもしれませんが、人生に意味と自分の存在を思うことができなければ、自分が無価値なものとして世界から扱われる(自分が扱う)ことになるので、空しいことにもなりかねません。
ここはまさに、タロットで表される四組の「杖」「バトン」「ワンド」ともリンクします。
ちなみにタロットの大アルカナで、最初の数を持つ「手品師」はバトンを持ち、最後の「世界」の人物もバトンを持っています。
「世界」のひとつの手前の数を持つカードには、使命と関係する「審判」のカードがあります。
「使命が与えられないと自分は特別ではない」あるいは、「特別な使命が私にはあり、私はそういう選ばれた人間のはず」・・・というような思い上がりは、自己価値が低い人だと言えます。
この考えは、自他を比べて評価を下す相克の世界に囚われます。
先述したように、使命を作り出すヒントはすでに現時点でもたくさんあるのです。
人は皆個性を持ちますから、真の個性を発見(発揮)できれば、それはまた使命(に生きている)とも言えます。
言い換えれば、個性を発揮することが使命の創造であり、さきほど述べたように、使命に生きることと同意義になるのです。
これまて言ってきたように、真の個性とは全体とも呼応したものです。自分勝手とは違います。
使命をもし天命的なものとして考える場合は、すでに自らが生まれる前からプログラミングしておいたものを、その後の人生の中で、散りばめられたヒント(自分が蒔いておいたもの)とともに発見していく作業になっていると言えましょう。
パーツを拾い集めて、ひとつの形にするという表現に例えることができます。
ですから、使命はあるといえますし、ない(発見するその意識がないとないものとなる)とも言えるのです。
「使命は自分によって創造される」
こう考えるのも面白いと思います。
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