恋愛でありのままになれない人へ
クリスマスシーズンということで、恋愛ネタの記事を書こうと思います。
まあ、本来のクリスマスの意味では恋愛とは結びつかない(高次では結びつきます)のですが、日本ではいろいろな商業的な思惑もあって、結局、クリスマスは恋愛の記念日みたいにされていますよね。でも最近は、かなり違ってきているようにも思いますが。
それはともかく、話を戻します。
恋愛をすると、誰でもそうですが、相手のことを知りたい、または自分をもっと知ってもらいたいという気持ち(欲求)が起こると思います。
また、若い人(若い頃の恋愛)には特に多いかもしれませんが、相手に自分をよく見てもらいたいという思いも生じます。
綺麗に見てもらいたい、かっこよく見てもらいたい、優しく思われたい、できる人間と思われたい・・・そんなような気持ちです。
ところが、これが問題になることがあります。
前述したように、恋愛気分になってきますと、自分をもっと知ってもらいたいという思いがあるのに、一方で、自分を「より魅力的に見せたい(魅せたい)」という気持ちも働きます。
それはいわゆる「ありのままの自分」や「普段の自分」とは「異なる自分」を演出しようというものになる場合があるので、自分を知ってもらいたいと思う気持ちに対して、実はブレーキになったり、抵抗力が働いたりするのです。
言わば、矛盾や葛藤を抱えたまま、相手に対することになります。
恋愛はある意味非日常であり、常態に対して異常なシーンとシチュエーションだとも言えます。(これはマルセイユタロットの「恋人」カードが象徴しています)
これは悪い意味での「異常」と言っているのではありませんので、注意してください。ただ「常なる状態」に対して、それとは「異なる状態」という対比で述べているに過ぎません。
ですから、日常の、まさに常なる自分から離れて、過剰に演出気味の「非日常」の自分、異常な自分が現れやすいのです。
この乖離(日常の自分と非日常の自分)とが激しければ激しい(大きければ大きい)ほど、葛藤も当然深まりますし、たとえ自分の表面意識が気がついていなくても、矛盾や葛藤を抑えるためのエネルギーが潜在的に働きますから、それだけ疲れやすかったり、あとでぐったりしたりすることになります。
また、抑圧された潜在的な葛藤の力が爆発的になり、おつきあいをしている期間に、一人になった時など、暴飲暴食をしたり、人に当たったり、おかし行動をしてしまったりすることがあります。さらには、ひどい孤独感に苛まされることもあります。
恋愛で楽しいはずなのに、なぜ?と思うわけです。
それは、今述べたように自分の内に葛藤状態を作り、自分に無理をしていることが一因です。
もちろん、ここで本来の自分と言いますか、日常の自分を相手に出していき、本当の意味で、「自分をもっと知ってもらう」という恋愛欲求にもかなうことをすれば葛藤も解消され、スムースな交際にもなっていくでしょうが、なかなか自分をさらけ出すというのも、恋愛ならでの難しさがあります。
それは、さきほども述べたように、恋愛シーン自体に非日常性を含むからです。つまり日常とは相容れない性質を持つので、日常に戻させない力も働くわけです。
日常に戻った時、それは別の次元に移行したことでもあり、恋愛モード(私たち一般が「恋愛」と言っている状態)とは言えない場合があるからです。
ではどうすればよいのでしょうか?
一つの解決策は、あえて恋愛モードの楽しさやドキドキを離れ、正直に自分の日常を出していくことです。
ただこの場合、さっきも言ったように、恋愛からの脱出、次元の移行を意味しますので、恋愛(モード)が終わる危険性があります。
しかしながらまったくの元の日常世界へ戻るわけではなく、恋愛をしていたという経験も合わさっていますので、元とは違う世界へ行くのです。
だから次元移行なのです。
恋愛が終わるということは悪いこととは限りません。
具体的に言えば、結婚する間柄とか、家族的な感じでの安心感を持つ関係性に移行することになるかもしれないのです。
確かに以前のドキドキはないかもしれませんが、この人といると安心できる、何でも話せる、ともに助け合って行ける、無理しなくていいというおつきあいに変化し、面白いことに、このことで日常が非日常になって、恋愛交際時が日常的になることもあるのです。
例えば、日常は仕事などで戦いモード、偽装モードになっている人が、恋愛においては素の自分を出せることになって、安らぐという具合です。
もうひとつの方法は、自分を内的に高め、自らの統合にチャレンジするような方法です。簡単に言えば、「すべてを受け入れる方法」と言ってもよいでしょう。
つまり、恋愛モードによって「自分を演出をしている自分」というものも自分だと受け入れるやり方です。
一方で日常の自分も当然自分です。それも認めます。そこに葛藤を思うのではなく、いったん分離して融合させる方法になります。
自分の中にはいろいろな自分(モード・世界)が存在します。恋愛には恋愛モードになる演出気味の自分がいて当然なのです。
それは悪いことではなく、恋愛の神・天使としてタロットに描かれているエロースやクピドー(キューピッド)に殉ずる正当な行為なのです。
恋愛は、恋愛することすべてが学びであり、自分にとっての変容過程(相手にも)です。自己の統合や発展において、また人生の潤いや華やかな演出においても、とてもすばらしいエピソードと言えます。
片思いや失恋という悲しいこともあるかもしれませんが、それでさえ、大局的には「華やかなエピソード」であり、自己を成長させるチャンスでもあります。
ですから、まずは演出していいんだ(日常や普段と違う自分を持っていいんだ)と思い、恋愛という現象が自分にやってきた喜びを味わうことです。
日常の自分と恋愛の時の自分とのギャップに驚き、悩むかもしれませんが、どちらも自分なのだと受け入れます。
そうしていると、不思議なことなのですが、相手に対して、日常の自分を見せることが怖くなくなってきます。
それは長いつきあいとかなれあいで、もう何を見せてもドキドキもない相手だから・・・という意味での暴露感(笑)や安心感ではありません。
相手に恋愛的な魅力を感じながら、それでいて、自分を見せていく快感のようなものと言ってもよいでしょう。
相手も同様に、自分を受け入れ、そして相手も演出モードではない自分を見せてくるようになります。
スピリチュアルな世界で言われる「鏡作用」です。
もし自分が統合や納得を果たしてきているのに、相手との関係がうまく行かない時は、何か相手側に課題や隠された問題がある場合も考えられます。
そしてまた、人間は実は奥深い生き物であり、相手のすべてを知ることはなかなかできないのです。
もうこの人のことは全部わかった・・と言ってもそうではない未知の部分は必ずあります。それが非日常感を生むのです。
言い換えれば、恋愛モードの非日常感は、相手や自分の未知なるものがあると感じる時に現れると考えてよく、そのためには自分自身を深めること、世界の探求をしていくことで多角的な視点が得られ、終わったと思った相手に対しても、新たな魅力を発見することもできます。
すると、相手に新しい未知なることを見たあなたは、ドキドキやワクワク、あるいはそうではなくても、不思議な非日常感覚を持っていくことになるでしょう。
いろいろとやっても、考えても、やっぱり恋モードで悩んでしまう、自分らしさが出せない・・・と言う人は、もうそれ自体(そうなっている自分自体)を受け入れるしかありません。
バカボンパパ(笑)ではないですが、「これでいいのだ」という感じで、この苦しみやモヤモヤ、不安・・そういうあらゆるものを経験すること自体に意味があるんだ、と思ってみましょう。
大丈夫です。必ず、その苦しみのあとに、結果はどうあれ、体験した喜びやありがたさに気づく時がきます。
今恋愛をしている人も、これから恋愛をする人も、過去に恋愛をしてきた人も、すべての経験のありがたさを思えば、とても大きな啓示があなたに与えられるでしょう。これはマルセイユタロットでは「審判」に象徴される出来事なのです。
どうぞ、よいクリスマスをお過ごしください。
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