「世界」のカードと自分の無知
タロットには21の数を持つ「世界」というカードがあります。
だいたい、どのタロットの種類でもこの「世界」は完全性や目的達成、完成みたいな意味合いを持ちます。
マルセイユタロットにおいても、人が目指す、あるいは到達できる最高の境地を示すと言われています。
ほかのカードもそうですが、特にこの「世界」に描かれている図像は、とても象徴的であり、何よりも人や動物(聖なる生き物)たちも相まって、とても多様性があります。
ということは、「世界」のカードが完全性を象徴しているとするのなら、つまりは完全とは多様であり、逆に言えば、多様表現から完全を見ることができると考えられます。
例えば、私たち人間も、一人一人個性を持ち、皆違っていますが、全員が存在していることで、それこそ「世界」が実は完全であることが示されていると言えます。
また、一人一人単独であっても、そこに完全性が宿ると見ることも可能です。
この完全や完全性を「神」や「仏」という言葉に置き換えてみると、すべての局面にあまねく世界に神や仏が存在し、行き渡っていて、いわゆる汎神論的な思想にもなってきます。
ということは、どこでも、いつでも私たちは神(仏)と会うことができ、また会っているのです。
先ほど言ったように、神(仏)は完全性の象徴ですから、私たち自身、いついかなる時も完全なるものを見ることができるのです。
それなのに、日々悩んだり、困ったりするのは、とらえ方や見方、反応の仕方に偏ったものがあったり、一部しか見ようとしないかったりするからだと言えます。
または完全(性)をとらえる能力や知性、感性などが未熟であるとも考えられます。要するに、無知であり、仏教でいうところの無明、本当の智慧に照らされていない状態です。
しかし、それがまた普通の人間の状態でもあり、そのことに意味を見出すと、苦しみや悩みも客観視する機会が得られるのです。
とはいえ、ずっと普通の状態(無明・無知)で居続けるというのは、言わば、何も考えずに人生に起こる現象だけに反応して(振り回されて)一生を過ごすようなものです。
せっかくの無知を自覚する機会も活かすことができず、原因不明のまま、わけがわからない状態で人生を終えてしまうことにもなりかねません。
先述したように、(普通の状態にある)人は完全性をとらえる(認識できる)力が足りない(それは無知である)ので、混沌した中に人間はいると言いました。
マルセイユタロットでは、「世界」のカードの状態になるためには、ほかのカードの象徴性で示されることを学ぶ必要があると言われています。
別にタロットでなくてもいいのですが、無知の状態から脱するには、単純に考えても、何かを知る必要があるのです。
近頃、学ばなくてもいいとか、自然体でいればいいとかいう人もいますが、何もしなくてもいいということとは別です。
言い方を換えれば、自然体や、何もしなくてもいいと信じられるようになる自分への変革がいるのです。
自分のありのままや自然体を取り戻せるよう、学んだり、感性を磨いたり、何かを捨てたり、力みを抜いたり、そういう何かの取り組みが「無知」から自分を救います。
また一度気づきや解放、変革があったとしても、解放や向上レベルの階梯は何段もあったり、何重にも柵が施されていたりするので、油断してはいけません。
まあ、あまり考えすぎたり、追い込んだりしても、それ自体が縛りや枠であることが多いので、どこか違和感の覚える状態は、自分における何かの過剰さを疑ってみる必要はあるでしょう。
この「違和感」というのは意外に重要で、人間にはもともと調和に戻るセンサー、完全性を表現したり、気づいたりするための装置があると考えられ、それらが「違和感」という感覚で知らせているのだと想像できます。
違和感と言っても、今の状態、その状態が間違っていますよという通知だけではなく、「違和感を持つことそのもの」がなぜなのか?ということを考える機会を与えられている、とも言えるのです。
後者はどういうことかと言いますと、その状態(外側のもの・状況)が間違っている、自分には合わないというお知らせではなく、その状態になじめない、あるいは認められない、受け入れられないというあなたに、何か偏った問題がある(完全性から遠ざかっている)ことを知らせているというケースです。
ではどちらなのかをどう見極めるのかという疑問もあるでしょうが、それを自分で判断できるように感覚を磨いていく、取り戻していくということ自体も学びです。
実はタロットを使うと、その学びを促進したり、センサーの感度を上げたり(タロットの出方によって、問題や偏りを認識することが)できます。
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