難しく考える人、シンプルに行動できない人へ。
今日はちょっと、よりスピリチュアルな話になると思います。
あんまりスピスピするのが嫌いな人は読み飛ばしてください。(笑)
ある日、タロットを見ながら、ふと思ったことがあるので、それを書きます。
ところで、物事を気楽に考えたり、シンプルにとらえたりできない傾向の人がいます。
逆に言えば、ちょっと難しく考えすぎたり、ルールや規則などを強く遵守しようとしたりするような感じの人と言えます。
まあ、私もどちらかといえばこのタイプと言えましょうか。
だいたいにおいて、そういう傾向ですので、堅苦しく、自分で自分を縛ってしまうようなことがあり、ま、関西弁でいえば「しんどい人」となるわけです。(苦笑)
で、「もうそんなことやめましょうや」とか、「そんなにきつくしなくたって生きられますよ」とか、「もっと自由にありのままでやっていけば、本当に自他共に調和していくんですよ」みたいに言われるわけです。
それはもっともな話なのです。
ところが、それでもこのような人たちは、自由(ラフ)になりたがらないところがあるのですね。(^_^;)
もちろん心理的にはですね、自分のそのような生き方に、自分の価値が見いだせるような仮設定があるわけで、それは親の承認とか、他者評価に関わることが多いわけです。
平たく言えば、きちんとしている自分、複雑に難しくしている自分は、自分の受け入れて欲しいと思っている人からの理想像(事実は「自分の思うその人」からの像ですが)なのですね。
ま、つまりは、自分としてはかっこいい(と感じている)わけですよ、これが。
けれども、今回は私の言うことはそれ(心理的な話)とはちょっと違うものです。
結論から言えば、このような傾向の人は、魂的にそれを好きで選択しているということです。
あるゲームや遊技を想像してください。
完璧な状態、たとえば道具がきちんとそろっている、ゲーム攻略本などの情報もある、なんてことであれば、まあ、そのゲームや遊びは簡単にクリアーできます。順当に楽しめるわけです。
でも、次第に熟練してきますと、正攻法や環境が整っている状態では面白くないわけです。
そこで、まったく別のゲームを今度はするか、あるいは、同じゲームでもわざとハンディをつけてやってみるわけです。
両手両足を使うより、足だけでボールを運ぶ縛りを入れれば面白くなったとして、サッカーができたように、です。
これが実は「人生ゲーム」においても、同じではないかと思うのです。
わざと難しくしてしまう道を選ぶのも、人生にあえてハンディを入れ、より楽しんだり、生きる技術を熟達させようとしたりしていると考えられるのです。
簡単にすればいいものを、なんでそんな難しく考えたり、してしまったりするのかは、実は魂のゲーム的な(ゲームを楽しむための)選択だったわけです。(もちろん全員がそうではないですが、ひとつの考えです)
ですから、こういうことを生まれる前に決めてきていますので、この魂タイプの人は、簡単なこと、シンプルなこと、優しい(易しい)こと、楽な方とかを避けてしまうことが多いのですね。
宇宙の真理を追究する、みたいなことが好きなタイプの人は、本当にこういう魂傾向の人が結構いるように感じます。
いや、本当は知っているんですよ、真理も、魂(自分のスピリット・神性・高次の存在)は。
しかし、それもあえてわからなくしたうえで、探究や解明のプロセスも複雑にしていくようにし向けているわけです。
それがまた、思考タイプや感情タイプなどによってわけられて、人生での実体験(生活ベース)で苦労したり、いろいろと考えを複雑にしたり(思索・思考の罠にはまったりする)して、自らを苦しめるわけです。
さあ、この難しい状況からどう脱出する? どう真理にたどりつく? どうやって幸せをつかむ? みたいな感じです。(笑)
現実的(表面意識的)にはとても大変なのですが、魂としては楽しんでいるとしかいいようがないのです。皮肉といえば皮肉ですが、それも自己の選択なので責められません。(笑)
死んだ後に、あの世で「今回はちょっとやばかったっすよ、縛りかけすぎて途中で死ぬかと思いました、あ、私もともと死んでも生きてもいないんですけどネ(^_^;)」なんて言っているかもしれません。(漫画ワンピースのブルックのギャグみたいですが・・)
反対に「ぬるい、ぬるかったよ、今回の設定は。次回はスーパーな縛りをかけておくよ」と言う人もいるかもしれません。
武道・戦闘系漫画やアニメでよくあるように、めちゃくちゃ重い縛りをかけて修行すれば、それを脱いだ時、高速で技を繰り出したり、実力が上がっていたりするようなものです。
そういうようなこを地球にしにきている魂グループがあるのだと感じます。
そんなこと知ったこっちゃないわ! 妙な与太話つきあってられないよ、現実で感じていることが大変で重要なんだよ!!という人は、最初にも言いましたように、この話は無視してくたさい。ひとつのおとぎ話、ファンタジーとして受け取っていただいたほうがよいでしょう。
ただ、こうした、別の観点から見てみるという方向性の違いを意識し、違うものを同時に見る(見る・見られる)ことを統合して行くことは、解放のヒントにもなるのです。言いたかったのは実はそのことなのです。
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