聖なるものを想像(創造)する。

私たちは、ともすれば毎日、同じようなことを繰り返し、そのまま無為に流された生活をしてしまいます。

それは仕方のない面もあり、そのほうが楽なことは確かです。

変化がないということは、このように楽な一方、面白味がなく、いろいろなものも停滞気味だという裏の面もあります。

逆にいえば、変化に富む毎日というのは、面白くはあっても、危険な面もあり、エネルギーも多く使い、何かと大変なことも多いわけです。

農耕(稲作)をするかつての日常の生活においても、やはり平穏で同じことを繰り返すような毎日と、お祭りをしてにぎわったり、神聖な気持ちになったりする特別な日とに分かれていました。

これは意識的というより、自然にそのようなサイクルが組まれていたと考えられます。(意図的な面もあったとは思います)

民俗学では、このサイクルをハレ(非日常)と(日常)ととらえ、日常のケのエネルギーが枯渇してくるとケガレとなり、そして神聖なるものと交流する「ハレ」状態をもって、その補給や浄化とし、また通常のケに戻っていたと想定されています。

いわゆるお祭りはオマツリとして、神を祀り、霊的にも神のエネルギーを降ろしてもらうことに意義があったと考えられます。(反対に言えば、内なる神性を、神を想像することで覚醒させていたと言い換えてもいいかもしれません)

たとえ神なるものが存在しなかったとしても、その存在を地域住民の皆が信じることで、心理的効果が及び、リフレッシュできたと思われます。

私個人としては、思いこみ的な心理効果とともに、霊的な何かのエネルギーの変転が、実際にあったのではないかと推測しています。

いずれにしても、「信じる」ことと、それが多くの人に共通意識となることが、神と人の交流や意識交換・意識変化システムにとって、非常に重要な要素であったと考えられます。

そのため、「神がいる」ということを視覚的にも認識しやすいように、神殿、つまり日本ならば神社・仏閣が造られたと想像できます。

しかも、日常のフィールドと明らかに異なるように見せるためには、高台であったり、森の中であったり、特別な場所が社の場所として選定されたことでしょう。

もちろんエネルギー場として、もともと特殊であったところということも考えられます。

ただ、人々の意識・思いが、信じる力の束となり、その場所に「神」なるもの、神聖なる存在・フィールドを創造したのだとも言えそうです。

日本語の音は不思議なもので、この場合の「思い」と「重い」がまさに重なり、思いが入る所は、ほかとは違う重力場になっている感覚があったのではないでしょうか。すなわち聖域です。

人々の思いが何らかの形で重さに影響し、その場所に行くと軽くなったり、重くなったりするようにも思います。(「重さ」は影響力にも関係)

このように昔は、村々の鎮守の社のような形式で、地域住民の共通理解によるイメージの神様が存在することで、生活に適度なメリハリがあったと想像できます。

しかし、現代の私たちはそうした共通理解の神殿や神を持たないため、カリスマ的な人や、ある分野に特別な知識や技術を持った人を神的に扱ったり(ネットでは「神」という言葉の使い方を見ればわかります)、かなり広域な範囲での神殿(有名神社)をわざわざ訪れたりします。

それも好き勝手な個人のリズムで、です。

言い換えれば日常的なメリハリが利かなくなっているのと、まとまりの力が弱くなっているのですね。

本当は地域のセンター的なところに聖域を作り、その意識を再び醸成していく必要があるように感じますが、なかなか難しいので、まずは個人の家から始めるのがいいかと思います。

それは神棚とか仏壇の復活と言いますか、そうした「聖なるもの」が認識できるものを家にも作ったり、置いたりします。

ただ意識が重要なので、飾っているだけではダメで、まして掃除も何もせず、ほこりをかぶっている放置状態では、単なるスペースの無駄となって逆効果とも言えます。

意識を特別なものにするためには、実在感が大切です。

つまりリアリティです。それは、思うだけではなく、現実の行為が必要となってきます。

手を合わせたり、祈ったり、唱えたり、お供えをしたり、そういうような聖なるものに対する実際の自分の行為があいまって、意識的・感覚的に、そこのフィールドに聖なるものが芽生えるのだと思えます。

そして、できれば一家の共通認識を形成することです。

つまり、家族全員が信じる状態というものにすれば、それだけ効果はその家全体に及ぶようになってくるというものです。

ただ、契約のように思ったり、何かを叶えるための代償のように感じたりすると、自分を縛ること(想像した聖なるものに縛られること)になるので、聖なるものに願望実現を祈るのは避け、感謝的な気持ちを捧げることにしたほうがよいと思います。

いずれにしても、普段の生活の中で、聖なるものを意識する場所と時間があることで、確実に意識を切り替えたり、クリアーにしたりすることが可能になってきます。

言ってみれば、流されにくくなるということなのです。

実はマルセイユタロットに接する時間を持つ行為も、これに類する(意識の切り替え)ことになります。

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