カードによる自己世界と全体世界の融合
マルセイユタロットは、いわばユング風に言うと、人間の集合意識の元型とでも例えられるものが象徴されていると見ることができます。
簡単に言えば、誰しも持っている思考や感情と、その反応のパターンと表現できるでしょう。
特に大アルカナ22枚でそれを表すことができます。
一方、もっと大きな意味で、霊的な進化のナビゲーションような形を象徴させることも可能です。
これらのことは私の講座で詳細に語っているところであり、またそれらの見方と活用についても述べています。
タロット(に限らないことですが)の象徴というものには、レベルや次元があり、全部同じ見方・とらえ方をしてしまっては、余計混乱するばかりなのです。
この次元の区別ができていないので、タロットリーディングにおいても迷うことになります。
またタロットという絵柄から何かを想像し、象徴として現実と関係させるという理屈もわからず、タロットなんてものはスピリチュアルや占い好きな人の迷信による道具にしか過ぎないと、頭の堅い人は思ってしまうことになるのです。
それはさておき、いずれにしても、どの次元の使い方をしても、マルセイユタロットはバランスが働くように構成されています。
例えば自己の内観や認識、調整・調和にマルセイユタロットを利用する(そういう次元で活用する)時、大まかに言えば、22枚の大アルカナに象徴される自己が内在していると考えることができますが、それぞれは、全体として何かに偏っているわけではありません。
ただ、不思議なことに(本当は当然のことです)、ひとつひとつカードと自分とを検証していく過程では、ある種の偏りが見られるのが普通です。
それは特定のカードたちがわからない、なじめないとか、こういうタイプのカードは好きだ、感じがいいというものであったり、カードを見て言葉がたくさん出るものもあれば、まったく出ないものもあったりするような感じです。
また感覚や感情とカードが結びつくと言いますか、気持ち・感じのようなものでカードをとらえたり、読んだりすることが向いているという人もいれば、反対に象徴の意味や言葉などから、理屈や論理が通って初めて、カードのことがわかってくるというタイプの人など、カードに対する自分の向き合い方・読み方にも個性が出ます。
それも、言わば、カードを通した自己の偏りの確認と言ってもいいでしょう。
実は「偏り」は個性でもあるのです。
偏りと聞くとネガティブなものに思えますが、反対に長所と言いますか、自分だけにある特別なセンサーと言ってもよく、ホジティブに解釈することもできます。
しかしながら、その偏りも、次第にそのどちらでもないとか、どちらでもあるとか、カードで象徴される自己認識をさらに拡大、受容していくことになり、偏りそのものが最後には修正されていきます。
言い換えれば、バランスが完全に取れた状態です。
さらに付け加えれば、「修正」というより、もともと偏りや個性はあるようでなかったことに気づく段階と言えます。
そして、個性や偏りは、次元を別にすれば、また登場してくるものなのです。
ただしここでいう「バランス」は、数値で計るようなフィフティ・フィフテイのバランスではなく、個人の特性に応じたバランスです。
食事でも、全員同じ数値的な栄養バランスのものを摂取していれば、皆が皆、健康になるとは限らないのと同じです。その人に合ったバランスというものがあるのです。
一方、実は全体を貫いている定理のようなバランスもあり、それは数値的なものではないとはいえ、普遍的・全体的なもので、いわば陰陽などの宇宙原理と言ってもいいものです。
マルセイユタロットをきちんと活用していけば、自分の個人バランスと、全体の大きなバランスとの融合点・調和もやがて理解できてくるようになります。
それは例えれば、わがままのように見えて、全体との調和も保たれているような生き方・自己表現です。(外からはわがままとは見えず、むしろ洗練された風に見え、そして内側・自分からは自分自身を出している・生きている・「わがのまま」にいる実感の状態です)
カード単体においても、最初は吉凶とか、いいカード・悪いカードという見方から入り(それは私は勧めていませんが)、やがてそのどちらでもないことに気づき、さらには精神的な雰囲気のカードに物質的なものを見たり、その逆をとらえたりという相互のエネルギーの循環を悟り、カード一枚でも宇宙を象徴することがわかってくるという過程を経て、全体と個別のバランスが調和されてきます。
そしてカード(マルセイユタロット)を扱うことが、自分や世界、ひいては宇宙をモデルとして観察し、自分自身が宇宙そのものであることを認識するための、プラクティスと遊技(ゲーム)をしていることに気がついてくるのです。
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