人間的に生きながら神(高次)を見る
西洋的にはタロットや占星術となりますが、その象徴性は極めて高度で、整理されたものと言えます。
しかしながら、一方で、人の現実的な悩み事や関心について、それらのツール・象徴性を利用して占いをしたり、具体的なことに当てはめることも可能です。
いわば、高度な理念(プラトン的にはイデア)と、低俗な人の欲求にも両方応えることができるものが、タロットや占星術などの象徴です。
ところで、現在の私は、マルセイユタロットを占いとして教えることはしていません。
しかし、一般で言うところの「占い」的な考えも大事だと思っています。
その大事さの意味が、昔よりも変化してきたことが言えます。
かつては占いとして使われるタロットから脱却することに力を入れていましたし、そういう理想を思って、教える際にも心がけようとしていた時もありました。
しかしながら、ことはそう単純なものでもないのです。
次第に私もそれに気がついてきまして、今は占いはしない、教えないにしても、占いを否定しているわけではなく(もともと否定していたわけではありませんが)、ただ、次元の適用の違いがあるだけだと、はっきり認識できるようになりました。
また講義でもリーディングでも、結果的には占いをしていることもありますし、プロセスとして、あえて占いを利用することもあります。
もちろん、占いの中にも高次はあり(もともと占いは高次なものから発生しています)、逆に高い理念を思っていても、その把握方法と適用を間違えると、やはり俗ぽいものとなってしまいます。
まさに「人間」と同じで、人は、神性と表現される高い次元の部分を持つと同時に、個人的な欲求や願望で活動したり、のまれたりする低次な部分、悪魔的部分、動物的部分も併せ持ちます。
それでも、マルセイユタロットで表現されていることですが、面白いのは動物でも、いや動物だからこそ純粋なものを持ち、また悪魔でも、悪魔だからこそ高い能力、高度な知性、輝くばかりの魅力、ほぼ神に近い完全性を有しています。
一概に何がよくて何が悪いかなどと言うことはできず、そのすべてが神なるもの、完全なるもの必要素や表現と見ることが可能です。
神秘思想に照らし合わせても、人の中には、こういった様々な要素が封じ込められていると言えます。
ですから、たとえ低俗に見えるようなものでも、そこには高次に至るヒントが隠されており、またやたらと高次や純粋なものを求めても、それだからこそ、もろく、すぐに折れてしまう(挫折や変節をする)ことがあると言えます。
人の相談や悩み事が、現実的で願望実現的なものになるのは当たり前です。
それに応えようとすると、例えば占星術において星の象徴性が、その運動性とともに、地上に投影されて(ハウスなどの手法でさらに現実化されます)、具体的なこと、個人的な関心ごとに、その象徴性の次元が落とされていきます。
タロットでも、抽象的で高度な意味が、卑近で現実的、二元選択・吉凶的なものへと変貌されます。
「魂が囚われている」と言われるより、「あなた自身が殺されている」と言われたほうがさらに強烈でわかりやすくなり、もっと現実的になれば、「今の会社はあなたに合っていない、辞めて別の●●のような仕事をするべき」となります。
人は一般的に、断定的・具体的・ストーリー的に述べられたほうが、わかりやすく思うものです。
言い換えれば、次元が低く、具体・個別レベルにひかれるということです。現実世界に生きているので、それは当然であり、悪いことではありせん。
問題はこの次元に固定された考えや生き方をして自覚できない場合であり、そうなると一生、その次元での世界で泳ぐしかなくなります。
それでも人生は悲喜こもごもで、それなりに楽しく、波乱もあって充実したところもある人生だと思います。
しかし、子供の時の世界観が、今見ればとても幼く純粋であったように、違う次元に至れば、それまでの世界の矮小さに気がつきます。
もっと言えば、それまでの世界で自分が騙されていたことに、気が付く場合もあります。
世界が拡大すれば、それだけ文字通り、自分の住む世界(リアリティを感じる世界)も拡大します。ということは、自分を活かす資源もや可能性も増えるということです。(危険や責任なども増えますが、その対応策もこれまで考えもつかなかったものが存在する世界になります)
インターネットがある世界と、なかった時代の世界と例えてもいいでしょう。
こうした次元移行のためには、実は、いきなり高次を目指すのではなく、一見低次とも思えるものを、高次に向かうためのエネルギーに変えていくことが求められます。
低次世界そのものに囚われるのではなく、その世界で自分が出すエネルギーを違うものに変換していくという意味です。
欲求や願望に対応しよう、かなえようという思いと行動が、実はエネルギーになるということです。
昔、「性の昇華」ということで、学校で学習した人もいると思いますが、あの概念に近いです。
そして、そのためには、高次とは何かということを想像できるイメージやモデルが必要です。目標がわからなければ、どうしようもないからです。
ただ、他の動物が人間の状態になれないのと同じで、高次そのものを、そこに至っていない者が体感することは難しく、そこで象徴をともなったイメージやモデル図が役に立ってくるのです。
神(の境地)とはこんなものではないか、と想像できるものです。
これが具体的すぎると、また低次になってしまうおそれがあるので、宗教によっては偶像崇拝を禁止しているところもあるわけです。(偶像は形や絵であり、具体的・人間的なものなので)
できれば抽象的で、自然や宇宙と同様、一貫し、透徹された規則性が内包されたものがよいと考えられます。
ただあまりに抽象的だとイメージするのも難しいので、そういう意味では、タロットは中間的によくできていると感じます。
とにかく、清く正しく美しくに徹するのでもなく、欲求や願望を満たす、現実を充足させることだけに取り組むのでもなく、理念を思いながら現実を生き、現実を生きながら(活用しながら)理念に飛翔するというのが、私の見るマルセイユタロットからの示唆です。
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