「幸せ」について考えてみる。

いろいろな方が、いろいろな方法で、人に対して“あること”を伝えています。

それは「幸せになる」ということです。

物質(成功)面からアプローチする場合もありますし、心の満足や解放から推し進めていく場合もあるでしょう。

いずれにしても、そのほとんどは、結局何を求めているのか、何を目的として語っているのかと言えば、「幸せになること」なのです。

ところが、「幸せ」という概念は、一般的なイメージもあるにはありますが、実は観念によるもの、つまり一人一人の思いや価値観で違うものなので、一口に「幸せになる」と言っても難しいものなのです。

この点が、「幸せになること」「幸せになる方法」においても、みんなに通用する部分と、私(わたくし)やあの人(個人)にしか通用しない部分とがある理由になります。

このことを理解していないと、得てして、押しつけの幸せ(観)を人に強要することになります。

言ってみれば、お酒好きな人が、お酒の飲めない人に無理矢理お酒を勧めるようなものです。

お酒が(好きで)飲める人は、お酒を飲むことはどうかと問われれば、当然、おいしく、楽しく、気分がよいものだと答えるでしょう。

ところが、お酒が一滴も飲めない人、体質的に飲めば生命や身体的に危険が及ぶ人の場合、お酒を飲むということは、まるで正反対の恐ろしいことになります。

狭義の幸せ、個人の思う幸せも同じであり、自分が思う幸せ感や幸せな状態というのは、ほかの人にとっては苦痛で不幸のこともあるのです。

「幸せになりましょう」言葉で、もし嫌悪感や気持ち悪さを感じるとするのなら、それは、そう言っている人の幸せというものの表現や実態に、自分の幸せ感(観)が合わないからの場合があります。

先のお酒の例でいえば、ベロベロで酔っているのはもちろん、ほろ酔い気分の状態であったとしても、「それは経験したくないなあ」とか、「お酒を飲んで酔うなんて、どうにも気持ちがわからない」「ほかでいい気持ちになる方法はあるだろうに..」と見るような感じです。

まあ、人は不快に思ったり、苦痛だと感じたりすることからは避けようとするものですから、結局、同じような感じ方をする人や、価値観(ただし、まったく同じ価値観の人は皆無です)の合う人で集まってくるのです。

批判したところで、もともと価値観や幸せと思うポイントが違うのですから、あまり意味はありません。まさにお楽しみは人それぞれであり、それを間違っているとか、面白くないとか言うのは野暮というものです。

一方で人の価値観や考え方は、訓練したり、知識や経験によって与えられたりして、変化しますので、新しい幸せ感、これまでとは異質な幸せ感(観)というものが出てくることもあります。

またお酒の例でいえば、もともとお酒を飲む力があった人が、飲まず嫌いや経験不足なだけであって、あとでそのおいしさや飲み方を覚えると、お酒を飲むことによる幸せ感というものが芽生えることもあるわけです。

ということは、「幸せと思う」想い方・方法をたくさん学べば(トレーニングすれば)、幸せな時間は物理的にも増加すると言えます。

これは言い換えれば、多様な価値観を受容する(多様な価値観を持つことではないので注意)心になればよいという意味でもあります。

ところがいろいろと落とし穴もあります。

そもそも人の幸せ感は、個人の快楽や欲求充足に基づくことが多く、平たく言えば低レベルな刺激だったり、現世利益にまみれたりすることに「幸せ感」がすり替わっていることもあるのです。

極端な例でいえば、麻薬で多幸感が得られるので、お手軽にやっていると麻薬中毒になりました・・・みたいなことです。

麻薬であっても、リスクがあることは別としても、確かに「幸せな気持ち」は感じているでしょう。

もし中毒症状を引き起こしたりせず、身体・精神的な危険がなかったりしたとしたら、麻薬を使用して多幸感を得るというのは、手段として間違ってると言えるでしょうか?

いや、幸せ(感)の質が違うんですよ、と言う人もいるかもしれませんが、幸せが個人の価値観や気持ちに基づいていると判断する限り、なかなかこれが悪いとは言い切れません。

しかし、もし幸せ感が、誰かによってコントロールされ、与えられている「ある概念」であり、それが個人的観念に巧妙に変化させられているとすれば、それはかなり厄介な問題です。

言い換えれば、誰か、あるいはある一部のグループのための共通的幸せ(感・観)のために、個人的な幸せ感が利用されているという場合です。

このあたりは単純なことではないので、なかなか判断は難しく、幻想と錯覚が入り交じった複雑なものだと言えます。

ただ無自覚・無意識的に、私たちは、自分の幸せへの欲求、幸せを感じたい心に、さらに植え付けられた「ある幸せ」のイメージがかぶせられて、本当の高次の幸せとは別のものを追い求めるよう、駆り立てられているのではないかと想像することもあります。

これ(そういう欺瞞の仕組みに気づくこと)は、マルセイユタロットに秘められた教義のひとつでもあるのです。

幸せになることは人として当然とも言える感情ですが、自分の求めている幸せとは何か、さらには、それ以外の幸せは本当にないのか、人のいう幸せは果たして自分の価値観に合っているのか、よく観察・洞察する必要があります。

自分を知ることは幸せにつながりますが、自分を知るつもりが、その過程でいつの間にか、人からコピーされた幸せの価値観と基準になっていて、それを実現することが目的に変わっていることがあります。

ずる賢い人は、幸せと自分を知るということをセットで道具とし、実は自分を知るプロセスや手段(メソッド)自体を売ることを目的としていることもあります。

従って、さらに悪質になりますと、自分探しをさせることに駆り立てることをわざとさせます。つまりは今まで意識していなかった欲求(デマンド)をわざと生み出させます。そう、まさにデマンド・需要になるのです。

自由・解放・ありのまま・常識やルールに従わない・じぶんらしく・やりたいことをやればいい・・・など、これらは自分・個性としての価値観を充足させることで幸せに近づく方法でもありますが、一方では、巧妙で悪質な勢力の広告や宣伝のうたい文句になっていることもあるのです。

幸せは個人とその価値観によって違うものではありますが、天(神・統合的総合的全体的視点)の幸せ観もありますし、その中間(個人と全体の間)もあります。

理想的には全体と個、天・地・人の幸せに適うもの(といっても、同じレベルですべてが適うというものではありません)が発見できればよいのかもしれません。

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