手品師とサイコロ
マルセイユタロットの大アルカナ、1の数(本来はローマ数字ですが、文字化けの可能性もありますので、普通の算用数字で表します)を持つカードは「手品師」です。
一般的タロット名称では、「魔術師」とか「奇術師」とか呼ばれているカードです。
ウェイト版の場合は、文字通り「魔術」を行っている様子が描写されていますので、「魔術師」で妥当でしょうが、マルセイユ版だと、やはり手品とか奇術を行っているように見えるので、「魔術師」というより「手品師」と呼ぶほうがいいかと個人的には思います。
実はこのカードにおいて、「手品師」も魔術とつながっていると考えられるのですが、それはここでは言及しません。
とにかく、「魔術」と表現するより、「手品」とか「奇術」と言いますと、表記的にも、言葉の意味的にも、どこかうさんくさいもの(笑)が漂ってきますし、また一方で、ひょうきんで、ちょっとかわいげがあり、憎めないところも感じます。
一見、巧妙に人を騙しているようで、ちょっとネタとかバレそうであり、手品であることを自分も客も理解したうえで、場を楽しんでいる雰囲気もうかがえます。
「手品師」はテーブルの上に、さまざまな道具を置いています。手にも棒(杖)を持っています。これにはひとつひとつ、見た目の道具としての意味だけではなく、隠された意味もあります。
ぱっと見には、無造作で、デタラ目に置かれているように感じる道具類も、実は綿密な計算と巧みな配置によってなされていることが、後世の研究者によって解明されています。
その図像を見れば、地球に張り巡らされていると言われるグリッド線のように見えてます。
このことから、おそらく、「手品師は」私たちと地上(地球)の関係を示唆しているのだと推測することができ、またその魔術的な使い方(従って、やはり「魔術師」でもある)も、わかる人にだけ暗号のような形で残しているとイメージできます。
そして、地球は、私たちが普通に思っている丸いものとは別の、やや立方体的なものであることも語っているように思います。またそういうようにとらえれば、ある「力」の理解として効果的だとも言っています。
さて、これはマルセイユタロットの中でも、ホドロフスキー・カモワン版タロットの特徴と言えますが、「手品師」の道具のひとつに、サイコロが並んでいます。
ほかのマルセイユ系タロットの「手品師」にもそれ(サイコロ)らしきモノがあるようには思えますが、はっきりサイコロ・ダイスとは見えないものが多いです。
しかし、一応グリモー版には、ふたつのサイコロがあるように見えますね。
ホドロフスキー・カモワン版では、ふたつではなく、3つのサイコロがあり、それも出目がすべて同じようになっています。秘伝では、この出目や並びにも意味があることになっています。
サイコロは立方体であり、私たちはサイコロといえば正六面体を思いますが、多面体サイコロとしては、ほかにもいろいろなものがあります。
四大元素を立体で象徴させたプラトン立体との関連もうかがえます。
ところで、北海道の地方テレビ番組から全国区(人気)になった「水曜どうでしょう」という番組があります。
現在、映画などで活躍中の大泉洋氏を有名にさせた企画バラエティ番組です。
この番組の中でも、「サイコロの旅」という企画がありました。
これはサイコロを振って、出た目の数の行き先(フリップにあらかじめディレクターが書いている)に絶対行かなければならないというルールで、まさにサイコロ任せの行き当たりばったりの人気旅企画でした。まあ、最近ではこれを真似してのバラエティも増えましたが。
私はこれを見ていて、「手品師」のサイコロをイメージしました。
サイコロから出る目は何かわからず、そこにはリスクもありますが、何が出るかわからない面白さもあり、出た目の数に象徴されることを経験する悲喜こもごもの事柄があります。
すごろく遊びでも、サイコロの出目に私たちは一喜一憂します。
「そこのマスには入らないでくれ・・・」と願ったのに、なぜかピッタリの数の出目が出てしまい、吸い込まれるように入ってしまったとか、「6の目出ろ!」と念じたら、本当に出てゲームを有利に進めることができたとか、不思議な経験をされた人もいらっしゃるでしょう。
想念と現実の仕組みの象徴にも、サイコロは興味深いツールと言えます。そもそもサイコロという立方体自体が、現実を象徴していると考えられるのです。
つまり、「手品師」のサイコロは、私たちが自分で創造する世界での、ワンダーな体験・経験を示しています。※サイコロにはほかの意味もあり、ここではひとつの考え方を言っています。
テーブルの上にあるというのも、この地上の、ある法則(物理や時間)の中で制限されたものであるということが見て取れます。
その上で、私たちはサイコロを自由に振り、出た目の数で象徴される世界を体験するのです。それはワクワクもあればドキドキもあり、悲しみもあれば苦痛もあるでしょう。
「水曜どうでしょう」では、大泉氏と一緒にサイコロの旅をする“ミスターどうでしょう”こと鈴井氏の二人が、苦労すればするほど視聴している者からは面白く感じます。ただ、旅をしている当事者にとっては、テレビ番組の企画といえど、大変なことであるのは間違いありません。(同時に本人達も楽しんでいるところもあるでしょう)
言ってみれば、「手品師」とサイコロ、あるいは行っている手品のシーンによって、この視聴者(お客様)目線と「手品師」本人目線の両方の融合・統合で見る人生が語られているわけです。
タロットで「旅」といえば、「愚者」というカードがイメージされます。
「愚者」と「手品師」のカードを並べた特、「愚者」の持つ袋からサイコロや手品道具が取り出されたと見ることもできます。
手品道具を出し、サイコロを振る場所は、あなたの現実のフィールドです。
「愚者」のままでは夢想や想像の世界に遊んでいてもよいですが、ひとたび、「手品師」になれば、そこは現実世界のフィールドとなるのです。
「手品師」は、その現実世界であなたが選んだ(または選ばされた)所での、経験や習熟の可能性を秘めています。
そうして、また「手品師」は道具を袋に収めて、「愚者」として旅立ちます。次の新しいフィールドで芸を磨くのです。おそらく、今までのサイコロで経験したものは、袋の中に入っていることでしょう。
自分が今いる場所・環境・仕事・人間・・・ここにもサイコロの出目の数だけ経験する象徴的可能性があります。
たとえつらく苦しくても、手品をして芸を磨いているのだと思い、視聴者(手品のお客様)目線をもって臨むと、少しは楽になってきます。
また本当につらければ、「愚者」となって自ら旅立つこともできるのです。その選択と行使ができることも、ほかの一桁番台の数を持つカードが語っているのです。
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