コミュニケーションと妖怪なるものの関係
ゲゲゲの鬼太郎でおなじみの漫画家・水木しげる先生がお亡くなりました。
妖怪といえば水木先生と言われるほど、今の日本人の妖怪イメージを創り上げた方だと思います。
先生が妖怪のことについてお話される映像をいくつか見たことがありますが、何となくタロットの精霊のことを語るタロットリーダーと似ている気がしました。
ここで妖怪が科学的にいるとかいないとかのまじめな話をしてもつまらないですので、ちょっと変わったアプローチで妖怪を考えてみたいと思います。
結論から言えば、私は妖怪を、その存在自体が、一種のコミュニケーションや情報通信・交換の方法のひとつではないかと考えています。
ところで、私は少し民俗学もかじっていましたので、妖怪の類が神の地位から落とされたもの、零落したものであるという説は知っていました。
水木先生自身も、妖怪研究の過程で、そう語っていらっしゃったこともあるようですね。
マルセイユタロットでも、かつて神であった者が姿を変えて、あるカードの人物になっているというものがあります。
どの世界でも、古い時代にそこで崇拝されていた神聖なものが、別の民族に征服されたり、新しい時代になったりして変化した時、意図的であれ、無意識的であれ、姿を変えて(変えられて)、神とは異なる形のものになって、人々の意識に存在するようになります。
例えばキリスト教が主体となったヨーロッパのほとんどの地域でも、キリスト教の聖人、そしてそうした者たちにこらしめられたり、調伏されたりする存在などに、かつて信仰されていた土着の神、古代の神、聖なるもののシンボルがあてがわれているのを見ることができます。
それが妖怪や精霊という、伝説で語られたり、特別な時に現れたりする存在なのです。
いずれにしても、普通の状態や一般の人間とは異なる存在であり、いい者もいれば悪い者もいるという印象になります。
また神なるものが、その征服した民族や、新しい時代の人々にとっての目に見えない部分での聖なるもの、つまり良きもの、正しいものの部分であるならば、妖怪や精霊といったものは、悪いもの、隠しておきたいもの、イレギュラーなものということになります。
ですから、悪魔(的な者)とみなされることもあるわけです。
ということは、心理学的に見れば、自分の影(シャドー)や抑圧されている性格・部分のようなもので、むしろ、そこに解放や自由の種もあることになります。(これは非常に重要なことです)
結局、神や悪魔、天使や妖怪・精霊というものは、別の次元や目に見えない部分の意識とコンタクトするための、人に与えられたコミュニケーションの技術であると、ひとつには考えられるのです。
私たちはコミュニケーションといえば、通常、話す言葉、書く文字、目に見える画像・映像などの情報、音声などによると思っています。
しかし、色でも見えない帯域があったり、音でも普通は聞こえない音域があるように、人間の通常の五感だけでは感知できない部分があります。
またいわゆる第六感というものも人にはあると言われ、それらよって得る情報があると考える人もいます。
そういった(通常感知できない)部分を知ろうとしても、普通は感覚的に無理なわけです。
ですから機械や装置というもので、今は補っているわけですが、この、通常は見えない・感じない部分を、特別な人のような存在を仮定することで、認識の補助とするのが、精霊的なものだと言えます。
神や悪魔、妖怪や精霊、天使といったものが、その各周波数や帯域に生きている存在ということで見るわけです。
そうした存在は、周波数を変えることで、こちら側の通常状態に現れることが可能になるのかもしれません。
逆に私達が、何らかのことで、あちら側の状態と合った時(シンクロした時)、コンタクトが取れ、コミュニケートできるとも考えられます。
人を主体とした場合、そうした存在は、人が異次元や普通に知覚できないこととコミュニケーションしたり、情報を取得(交換)したりする一種の「機器」となりますが、存在側を主体とした場合、存在はまさに生命的なものとなります。
存在とのコミュニケーションやコンタクトで大事なのは、水木先生もそうであったように、やはり、相手側(妖怪などの存在側)によって立つこと、見えない存在を生命的なものとしてコミュニケーションする(できる)と考えられるかどうかだと思います。
もっと言えば、「考える」というより、「思う」というのに近く、感情的(リアリティの感覚)なものが鍵となると言えるでしょう。
この感覚・状態というのは、タロットリーディングにおける、タロットの精霊とのコンタクトという一連の概念・操作と、やはり似ているように感じるのです。
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