自分はどこに存在するのか? 関係と映像
タロットを象徴的に見ていますと、私たちには様々な顔(人格・姿)があることがわかります。
そして、いったい、本当の自分とはどんな人物で、どんな顔を持つのかと疑問になってきます。
いや、自分と思うこの自分こそが本当の自分だと、皆さん思うでしょうが、その姿を確認することは不可能です。
たとえ、鏡で見たとしても、反転した像です。まあ、さらに反転した像を見ればわかるのかもしれませんが、姿がわかったところで、今度は内面がはっきりしません。
自分の性格を一言で表すことはできないでしょうし、思考や感情が目まぐるしく変わる(動く)わけですから、「こういう人物」だと自分で規定してしまうことは難しいわけです。
さて、自分を自分で認識することはこのように困難なものですが、他人から見た自分というのは、まさにその映った姿ですから、他人は自分を認識していることになります。(厳密にはそうではないかもしれませんが)
しかしながら、他人の思う自分というのは、言わばペルソナ、あるいは役割のようなもので、やはり自分そのものとは言い難いです。
夫婦や恋人、パートナーからすれば、自分は相手の文字通り「お相手」ということになりますし、その関係性や性別によって、妻だったり、夫だったりするわけです。
同様に、会社や組織では、やはり関係性によって、上司と部下だったり、同僚同士だったりします。
地域社会では、近所のおじさん・おばさんかもしれませんし、自治会員と会長、防犯委員同士みたいななこともあるでしょう。
もちろん家族として、親子・祖父母と孫、親戚の関係ということにもなります。友人であれば、自分は相手の友達ということです。
結局、人間社会における関係性において、自分と他人は規定されると言ってもいいでしょう。
ということは、人間関係と役割が増えれば増えるほど、自分が演じると言いますか、自分がなる役というのも増加するわけです。これは自分から見た他人にも言えます。
よく他人は自分の鏡だと言いますが、こうした役割的な面で見ますと、鏡にしても、面白いことがわかってきます。
つまり、私たちは、いくらでも自分を変えることができるのです。
相手に映った自分の姿は、相手との関係性、相手が自分のことを役としてどう見ているかによって決まるわけです。
言わば、相手鏡(それは相手が思うこちらの役・性質)によって映し出されたものが、自分のひとつの姿にもなるのです。
逆に、自分も鏡を持っており、それに映った相手の姿で相手(との関係性)を認識します。
この鏡は人が相手をどう判断するか、どう見ているかによって変わるものです。複数の鏡を持つことも可能でしょう。
例えば、漫画や映画でおなじみの「釣りバカ日誌」では、ハマちゃんとスーさんは、会社では平社員と社長という関係で、この鏡(役割としての認識では)ハマちゃんはスーさんを社長という姿で自分の鏡に映し出しますが、いったん趣味の釣りの場面においては、ハマちゃんの鏡はスーさんが釣りの弟子であり、釣友と映し出されるわけです。
鏡については、もっと考察していくと興味深いことがわかってきますが、ここでは、鏡よりも、映し出される可能性について指摘しておきたいです。
本当の自分というものはわかりづらいと最初に言いましたが、それだからこそ、このように、人との関係において、その関係の数だけ(いやそれ以上)とも言える自分の姿が相手に映し出されるわけです。
まさに百面相と言いますか、千面相・万面相かもしれません。
それだけ、私たち一人一人、無限の顔(役)になれる可能性を有しているわけです。
しかし、ここが肝心ですが、その可能性も、人の鏡に映し出されなければ出ることがないのです。
ということは、現実的に見て、たくさんの関係性を結んでいくことが、自分の顔の可能性を開くということになります。
別に「いい顔」だけではなく、怒りっぽい顔、ナーバスな顔、臆病な顔、支配的な顔、暴力的な顔といったものも、相手によっては出る(映し出される)かもしれません。
それにとらわれるのではなく、あくまで映し出された自分の可能性のひとつとして受け流すとよいわけです。
つまり、自分というものは千変万化するものであり、今見せている姿もそれのひとつに過ぎないので、人から言われた(批判された)あなたの顔や姿を気にし過ぎる必要はないわけです。
他人に映る自分の姿や役割は、心理的には、自分の一面を統合するためのひとつの手段と言えます。
相手に映るものだけではなく、自分が映し出す相手の姿・役も、人しての可能性として見ることができます。
映し出せるということは、あなたの中に、それに反応する(わかっている)部分があるから映し出せるわけです。
そうしたところで、実は象徴的に、自分が映し出される役と、相手を自分の鏡で映し出す時との両方でよく現れる顔・役があります。
象徴的にというのは、現実的な名前のついた関係性の役割、夫婦とか親子とか、部下と上司とかというのではなく、エネルギーや運動的なものとして見るものです。
支えになるとか、導くとか、取り持つとか、深くするとか、そういった感じでたとえられるでしょう。
おそらくそれが、今回(今生)のあなたとしての特徴といえば特徴となる部分で、本質(しかし本当の自分というのとはまた違いますが)のようなあなたなのかもしれません。
マルセイユタロットでいえば、22枚の大アルカナで象徴(もう少し絞ることもできます)で見ることのできる表現であり、役割です。
結局、本当の自分などなく、スピリチュアル的によく言われるように、全部、またはひとつ、あるいは何もないという状態がある(「ない」のですが「ない」ことが「ある」ということです)だけなのかもしれません。
従って、自分というものは、人同士の関係性、思考や感情などのエネルギーによって、現実空間に映し出される像全体、またはその時その時に現れる像・姿を指すともいえ、最初から何も決まっていないものなのかもしれないのです。
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