「恋人」「運命の輪」から見る「縁」
マルセイユタロットの「恋人」カードと、「運命の輪」は、私の中では特別な関係性を結ぶ場合が多いような気がしています。
もちろん、どのカード同士でも関連があり、そうしたコンビネーションによって生まれる象徴性と気づきもまた、マルセイユタロットならではの魅力です。
ほかのタロットや、タロット以外のカードでも、複数のカード同士から思い浮かぶことはあるでしょうが、マルセイユタロットの場合は、カードに実際に描かれている細かい図柄によって、それが立証される(イメージだけではなく、実際的に目でも確認できる)ことが面白いと私は感じています。
それはともかく、「恋人」と「運命の輪」です。
このふたつは特に、人間関係における縁のようなもの、運やタイミングみたいなものを表しているように思います。ふたつが並ぶと人間同士という側面が強調されるように見えます。
「運命の輪」には、その名の通り、運命を象徴するような「輪」が描かれており、「輪」なので「円」というものがイメージできます。
一方、恋人カードでは、三人の人間が、上空に現れている天使(キューピッド)には気づかず、誰を選ぼうか、何を話そうか、迷ったり、話し合っているように見えます。
そこに人間と天使という、異次元の存在はあっても、この両者にはコミュニケーションは直接介在せず、人間同士のコミュニケーション、つきあい、結びつきのほうがメインのように表現されています。
人間の結びつきなので、そこに人の縁が生じていると見て間違いないでしょうし、楽しく会話していれば和やかに、文字通り「和」があり、「輪」となっていることでしょう。
また人の集まるところ、たとえそこで激論が交わされているとしても、そこには会合としての人の「輪」ができていると言えます。
「恋人」カードの上空の天使は、人の縁の実際の鍵(矢)を握っていると考えられますが、ここ(「恋人」カードの描き方)では「人の縁」のほうがウェートを占めていることがうかがえます。
一方、奇しくも「輪」という言葉が出たように、「運命の輪」においても、運の巡り、時やタイミングの巡り、つまり回転によって出会いや別れが生じていることを表しているように見えます。
「運命の輪」の中の二匹の動物などは、そうしたことを感じさせます。
「恋人」カードの天使と、「運命の輪」の「輪」の上に君臨するキメラ状の動物(スフィンクスと言われています)は、カードの位置的にも同じようなところにおり、関連性が想像できます。
それはさておき、人間の縁によって運(運命)が回っていくことが二枚のカードからわかりますし、象徴図形として、まさに「縁」と同じ音である「円」が重要なのも浮上してきます。
人と人とが出会い、縁を生じさせる時、一対一の場合もあれば、一対多になることもあります。
一対一とは、自分が誰かほかの一人と一対一で知り合う、出逢うようなケースで、一対多とは、セミナーや教室、組織など人が多く集まる場所で、自分が多くの人と一度に知り合う、その機会を得るような場合を指します。
後者の場合、場所やシチュエーションが一対多の関係性、縁を生み出すと考えられがちですが、また実際にそうではあるのですが、別の視点で見ますと、結局、そこには自分のほかに、(場所や機会を提供している)中心となる人物がいることがわかります。
その中心となる人物こそ、実は「恋人」カードでは天使(キューピッド)であり、「運命の輪」ではスフィンクスだと考えられます。
ここで、さきほどの「円」の図形を持ち込みましょう。
言わば、一人一人縁による「円」を持っているのですが、交際範囲が狭い人は、それが当然小さいものとなります。しかし、小さくても回分数を上げ、猛烈に回して行けば、人と出逢う機会も多くなるでしょう。
そして多くの人とすでに知り合っている人(いわゆる人脈の豊富な人)は、すでに縁の拡大によって、自分の円も大きくなっており、その人(の円)と接触することで、あなたの円も影響され、広がりを見せたり、回転が変わったりします。
言い換えれば、多数の円とつながっている円と自分の円とが結びつけば、それだけ多重の円、無数の円と共鳴しあう仕組みになっているということです。
小さな円が集まれば、その全体を含む「ひとつの大きな円」での回転が始まり、ある種のサイクル(回転数)とリズム(回転率)を生み出します。
運の善し悪しや、運の変転は、この円(輪)の回転で決まってくると、「運命の輪」からは推測できます。
従って、人との縁は、極めて自分の運勢的にも重要なのです。
自分が人を紹介していくことで、最初は小さかった円も、広げることが可能になります。すなわち、「恋人」カードでいえば、自分が天使役(キューピッド)を担うということになります。
意識しなくても、実は、人は知らず知らず、生きている間、あるいは亡くなった後でも、人との縁を結びつけていく存在となります。(物故者でも、その人の縁で結びつく関係はあります)
行ってみれば、人生は様々な円が重なった、とても美しい幾何学的な美・芸術作品なのかもしれません。
おそらく亡くなった時、その自分が描いた美しい模様を知ることになるでしょう。
円は回転もするので、たぶん音も聞こえるはずです。とすれば、音色・音楽としても、自分の人生を「聴く」ことができるかもしれないのです。
生きている時は不協和音にように聞こえていた音でも、実は壮大な音楽を作曲していたことに感動するもしれません。
現世でじっとてしていては始まりません。
多くの人、体験、機会を通して自分の縁・円を広げ、やがてそれは園となり、エデンの園として永遠に至る道となる可能性を秘めているのです。
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