自分を信じる過程 「悪魔」のカード
私はアニメ好きなので、よくアニメを観ます。
最近ふと、以前観た「天元突破グレンラガン」というアニメを再び観たくなって、見返しておりました。
それで、このアニメの中で、主人公シモンに強い影響を及ぼすカミナという人物が、シモンに向かって述べるセリフがあります。
最初にそれは、
「自分を信じるな おれを信じろ おれが信じるお前を信じろ」
と言っていたのですが、最後の方は、
「おまえを信じろ おれが信じるおまえでもない。おまえが信じるおれでもない。
おまえが信じる、おまえを信じろ」
となります。
この経過は、自分を本当に信じていくことのプロセスを表しているようで、そのストーリー展開のタイミングとも相まって、なかなか感動的なもの(言葉)になっています。
スピリチュアルや心理の世界では、よく自分の価値を認めるということがあり、それは他人や外からの評価ではなく、自分で自分の存在と価値を、ありのままに認めることができるようになることを指します。
それは、すなわち、本当の意味で「自分を信じる」ということと、同意義のところがあります。
ただ、この現実の世界は、分離(二元)の世界であり、言い換えれば、比較や違いによって、物事(存在)が認識できるようになっている世界でもあります。
そのため、違い・差をどうしても意識せざるを得ないのが実状です。
そんな中で、自分と他人を比較して、特にその所有(持っているもの・持っていないもの)の観点から、自分にはなくて他人にはあるというような思いが起こりやすく、自信がなかなか得られにくいところもあります。
だいたい、人の人生は、他人との違いを見せられる連続と言ってもいいものです。
よほど、もともとの自信家や狂信的なところがないと、普通は自分が持っていないということ、自分が人より劣っているというようなことを意識してしまうようにできています。
小さい時は、当然すべてが未熟ですから、たとえば身体においても、上級生や大人と比べて自分が小さいことを認識します。
学生になり、同級生同士でも、勉強、身体能力・スポーツの出来不出来、外見性、異性のもて具合、性格のよしあしとか、出身の家柄とか、親の金持ち度とか、とにかく、必ずどこかの部分で違いがあり、人よりプラスもあるでしょうが、マイナスも目に着くものです。
成長して社会に出たとしても、先輩や上司、同僚同士で自分と比べて、見劣りするところを発見するでしょうし、社会人になれば、結果がシビアに評価されることにもなりますし、成功者という人がますます強調される世界に入りますので、学生の頃より、さらに自分が人より劣っている、よくないと思ってしまう傾向は強まるかもしれません。
このような状況では、自分一人の力で、自分を認め、信じるということが、なかなか難しくなるのも当然です。
では、どうすればよいかと言いますと、やはり他人から評価される自分を経験することです。逆に言えば、他人を評価できる自分を、仮でもいいから作ることで、他人に貢献できるということです。
自分を自分で評価できず、自分を信じられなくても、「おれの信じるおまえを信じろ」と強く評価されれば、とにかく、その人を信じて(その人のことが好きだったり、信じたりしていればという前提はいりますが)、行動することができます。
それは他人評価の自分という、「かりそめの自分」ですが、自分を信じていくための過程においては必要なこともあります。
ただ、この場合でも、自分を信じてくれる人との出会いや関係性が重要です。
それでも、私が思うに、人生、一度は必ず、あなたを信じてくれる人が現れると思っています。
それが最初は親であることは多いと思います。そして、親以外にも、すべてにあきらめなければ、きっと誰か現れることでしょう。
そうして「他人の信じる(評価する)自分」から始まり、やがて、少しずつ、他人に評価されなくても行動できる自分に変わっていくのです。
他人が信じてくれたから動けるというのは、思った以上にパワフルですが、その信じてくれる人にかなおうとする自分の力が、自分自身を信じることで強くなってくることに気づけるかどうかがポイントです。
「自分を信じる」ということは、どこまでいっても実はあやふやなものかもしれません。
根拠のない自信と言ってもいいものです。
しかし、そうした、ある意味、形のないような、何か奧にある自分というものこそが、本当の自分への信頼に関係し、結局それは、宇宙とか大いなるものとつながる自分というような感覚に近くなってきます。
それが冒頭に記した、アニメ「グレンラガン」におけるカミナのセリフ、「おまえが信じる おまえを信じろ」的な言い方になるものと言えます。
この最初の「おまえ」は自我(エゴ・自意識)の「自分」ともいえ、そして後者の「おまえ」は、統合的自己、「真の自分」であり、神性に近い存在、疑いようのない高次の自分のようなものと考えられます。(「おまえ」の意味の順を逆に取っても、結局、意味的には同じになってきます)
マルセイユタロットでは、高次の存在や心境のひとつに、「悪魔」というカードが君臨しています。
悪魔は低次で悪い存在と思われがちですが、カードは人格的なものを表しているのではなく、ひとつの表現やエネルギー、質を象徴しています。
悪魔は独立・自立・自分を信じ、自己を自分で評価できる力であり、パワーです。そのために人を試すこともあれば、逆説的に強力な力・魅力でもって人を支配し、縛ってしまうこともあります
ただ、悪魔は人に、自分を信じること、自分に力があることを促す存在でもあるのです。
最初は悪魔(自分を評価してくれる存在)から信じられている仮の自分が、力を発揮します。
しかしそれは悪魔からパワーが出ているのではなく、自分自身の力なのです。
悪魔によって評価され、守られている自分だからこそ、最初は自信のない自分であっても力を出せますが、やがて自分自身が悪魔(いい意味で)であることに気づくと、マルセイユタロット的には次のナンバーを持つカードの「神の家」に進み、自身の神性、言い換えれば「自神(じしん)」に出会うのです。
最後まで悪魔によって支えられていないと、自分が信用できないという人は、逆に悪魔に縛られる状態となります。(「グレンラガン」でもカミナの幻影にとらわれる時代のシモンが描かれていました)
また、自分に自信を持つこと、自分を信じるということは、一人でもいいので、心から誰か他人を自分が信じ、認めることから始まります。
それが回り回って自分を信じることにつながり、還ってくるでしょう。
「アタシが信じるあんたを信じなさい」ということからでいいのです。(これまたアニメで、「涼宮ハルヒ」みたいですが(笑))
言われた相手は、自分自身にある力を少しずつでも発揮することになるでしょう。先述したように、それがやがて、自分の力だと知るのです。
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