今の世界が生きにくい(生きづらい)人たちへ。
今日はあえての逃避の良さと言いますか、そういう傾向の人に応援歌を送りたいという気持ちで書きます。
というのも、私自身もそういうところがあるからです。(苦笑)
まず、この世の中、楽しいこともありますが、つらいこと、苦しいことが多いのは否めません。
生きている限り、悩み、労苦はつきもので、おまけにこの地球という星ときたら、なんでもかんでもごちゃまぜの世界、あらゆるレベルと階層が混濁している状態といえ、ナーバスな人は生きづらいこと、この上なしです。
現実の学校でもありますが、生徒のレベルや状態がまちまちな場合、だいたいにおいて、低いほうに平均化されます。あるいは、強引だったり、パワーで支配するものが優勢になります。
この星にも、レベルの高い人がたくさんいらっしゃると思いますが、残念ながら、いまだ争いごと、お金や権力での支配構造がはびこっている状態です。
レベルの高低を言うと問題があるかもしれませんので、ここは、あえて「好き嫌い」と表現しまして、まあ、今の地球は(昔からもそうですが)、戦争や支配など、そういうことが好きな人たちが大勢を占める星になっているのだと思えます。
報道される事件にも悲惨なものや、信じられない残酷なものが少なくありませんし、歴史的に見ても、酷いことがあまりにも多すぎる気がします。
このような状況(世界)で、生きるのが嫌になったり、引き籠もったり、社会におそれをなしてしまうのも、むしろ当然のところがあるような気がします。
ですから、この状態でもしっかり生きられる人は本当にすごいと思いますし、もしかすると、感性や遺伝子レベルでも、まったく違う生き物なのかもしれないと見てしまうほどです。
そして、スピリチュアル的に言えば、魂がこの世界の今の表現に合わない、なじまない、感じの人がいます。
いや、だからと言って、この世界になじまない人たちが優れているというのではありません。見方によっては軟弱で、傷つくのが怖い人たちということにもなります。
先述の「好き嫌い」的分け方で言うと、今の世の中の仕組みが苦手、あるいは、積極的に生きにくい(従って生きるのが下手と見られる)、適合しにくいということです。
なぜ、そのような魂の者がこの地球に来てしまったのか、理由はわかりません。
修行のためとか、宇宙の戦士(困難さを経験して、ほかに還元するため)として来たとか、囚人のように送り込まれたとか、いろいろスピリチュアルでは言われます。
グノーシス神話的に言いますと、悪魔に閉じこめられた世界で、本当の叡智ある世界に戻ろうと努力していると例えることもできます。
いずれにしろ、どこか間違っているのではないかという気持ち、ここ、あるいはこれではない感覚、というものがあって、それでも頑張ってこの世界に溶け込もう、生きようとはするけれども、何か、どうしても逃避的になってしまう、という人がいるように思います。
もちろん、こういったもの(思考)は、中二病と紙一重で(笑)、現実に適応できない自分のために、都合のよいように作られるストーリーであることもわかります。
しかし、現実が正しいのか、私たちの厭世観や違和感の奧にある世界(その人が見るイデアといってもいいものです)が正しいのか、観点の相違だけであって、明確にはわからない(判断がつかない)と考えることもできます。
人には、ありのまま・現状を受け入れていくことと、理想を見て、現状の差や違いを改革していくこととの両方が必要ではないかと思います。
現実と現状の世界で自分を最高に輝かすという生き方もあれば、反対に、現状を変えていく生き方、さらには、現状から逃避する生き方もあるわけです。
このうち、現状から逃避するのは、もっとも低劣で、批判されるべきものと、一般的には思われています。
確かに、まるっきり、逃避、究極的には死まで行くと問題で、当人にとっても逃避生活は地獄のようなものになります。
当たり前の話ですが、現実・現状から逃げても、現実に生きる限り、逃げ場はないわけで、到達地もなく、ただ逃避行あるのみです。
逃げることは、たとえ鬼ごっこのような遊びでも緊張感が伴い、気が休まる時がありません。従って、逃げている間はずっと修羅場・地獄の毎日となります。
ただし、面白いもので、タロットをやっていて気がついてきたのですが、地獄にならない方法もあります。
それは逃避行しながら現実を生きるという、矛盾したような方法です。
今のような世界の状態・表現になじめない気質を持つ人が対象ですが、実は簡単なことで、案外、誰でもたまにはしていることなのです。
これは、意識的(意図的)な夢遊病(笑)みたいなもので、心は非現実に生きつつ、肉体は現実に生きさせるというやり方です。
一見、心と肉体が分離した、それこそ病的な感じがしますが、そうではないのです。
しかも、これにはある種の覚悟がいります。もう少し、順を追って説明します。
まず、「自分は夢の世界でしか生きられない人間」だと自覚することが最初です。
夢の世界で生きるとは、現実逃避する自分を受け入れるということです。
無理して現実に適合しようとしたり、他人に必死で迎合したり、社会でいい人、今の社会的に尊敬されたり、評価されたり、人気が出たりする人間をあきらめます。
ここが実は難しいところです。
現実に生きようとすると、今の世界の価値基準での「よい人間」「有能な人間」「持っている人間」「評価される人間」というものを目指そうとします。
それが当たり前ですから。
ただ、そうすると、今の世界の表現がもともと合わない気質をもっている人には、無理が生じる生活になりがちで、言わばもともと混ざらない「水」と「油」を、何とか混ぜ合わそうということになって、ますます「水」と「油」の分離(自分と今の世界の間との壁)が激しくなるのです。
ということで、自分はこの世界に合わないことを素直に認め、自分の心の中にある「理想」や「感覚」を頼りに、なるべくそれと適合する場所・人間・表現のものを探します。
ただし現実は完全に合うものはないですから、どうしても精神(心)とか三次元以外のものになる可能性があります。あるいは動物とか、人ではない生き物との関係の中にそれに近いものがあるかもしれません。
と言っても、私たちは食べないと死にますし、現実社会の中で、一人山に籠もって生活するのも難しく、実社会でとにかく生活していかねばなりません。
そこには法律やルール、社会常識、責任というものも存在します。
これ(社会とルール・責任など)は牢獄というか、そういう世界に修行に来ていると割り切り、だからこそ、できるだけ肉体とか、物質レベルでも、快適になることを選択し、行動します。
「修行」と言っても、いい意味の修行というより、囚人生活みたいなものなので、同じ囚人生活であっても、なるべく牢屋の中で快適になる道を選択したほうが、まだましだからです。(笑)
大切なのは、現実で生きながらも、心は夢に生きることです。心まで現実(現状という現実)に適合(迎合)させては、完全に現実の奴隷となります。
「自分は夢がエネルギーであり、食べ物だ」と認識(自覚)して、ほかの一般の人が口に入れる「食物」は、肉体と現実という牢獄で差し出される「配給される食事」だと考えます。(配給でも、本当の牢屋とは違い、ある程度、自分でおいしいもの、美しいものを入れることはできます)
「夢」という本当の食べ物を忘れると、この世界に合わないあなたは、栄養不足となるばかりか、精神的には餓死する危険性さえあります。
「夢」が何なのか、これは人によって違います。
好きな仕事であったり、趣味であったり、使命感をもった活動であったり、愛する人との生活、自然とのふれあい、さらには文字通り、睡眠で見る「夢」ということもありえます。
本質的に現実(現状)に生きず、夢に生き、そして仮初めの(他人にとっては現実でも、自分にとっては仮と思える)世界を旅するように生きていく、これがナーバスで、この星の今の表現に合わない人たちの、ひとつの楽に生きる方法となるでしょう。
逃避的な傾向の人、あなたは実は、すばらしい旅をしているトラベラーであり、ボイジャーなのです。
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