言語・文字、伝達と理解 「斎王」と「法皇」
マルセイユタロットにはコンビや組、ペアとなるカード(とその概念・考え方)があります。
その中では、「斎王」(一般のカード名称では「女教皇」)と、「法皇」(以下同じく「教皇」「法王」)というペアがあります。
このペアの意味するところに、相当に深い教義と秘密が隠されており、実は先日実施した恋愛セミナー(受講生のみの限定セミナー)においても、その一端をお話したところです。
この両者はカードの印象からして、およそ恋とか愛とか、関係なさそうに見えますし、現代的価値観で見た場合は確かにそうかもしれません。
ところが、ある視点から見ると・・・意外にも意外・・というものなのですが、ここではシークレットにしておきます。
マルセイユタロットには、やはり易々と口外できない部分もありますし(縁があったり、準備や用意された人に伝えられる性質があります)、私のほかにもマルセイユタロットを伝えている方はたくさんいらっしゃり、その方たちにもご迷惑をおかけしたくないのもあります。
そうした口伝や隠された秘密とは別に、私自身が気づいたり、マルセイユタロットを象徴として見た時に、一般的に考察できる面ももちろんあります。
このブログでは、そのようなものを公開しているところです。
さて、「斎王」と「法皇」です。
マルセイユタロットの「斎王」の絵柄は、本を手にした女性が描かれています。
一方、「法皇」には本はなく、代わりに弟子のような、聴講者のような人たちが描かれ、肝心の「法皇(法王)」と思える人物は、その人たちに向けてか、もっと別の人たちにかはわかりませんが、とにかく話をしているように見えます。
この対比から見て、現実的には書物(文字)と言語(言葉)ということが浮かんできます。
私たちが何かを知りたい、伝えたいと思う時、文明社会の人間は、文字と言葉で理解したり、伝達しあったりします。
このふたつ(言葉と文字)は欠かせないものです。
しかしながら、これらはまた誤解を生みやすいものでもあります。
国や文化が違えば、言葉と文字はだいたい異なってきますし、同じ国内であっても方言があったり、年齢や属する社会・組織などによって言葉も、使う文字ですら違ってくる場合があります。
また、心の内や感覚、見えない領域を表現する時、どうもそのニュアンスがうまく言葉や文字で表せない、伝えられないと違和感を覚えたことは、誰にでもあると思います。
ましてや、別の言語や文字を翻訳する作業ともなれば、それはもう大変でしょう。
特に、本だけの文字で読んで理解・伝達しようとする場合、言葉よりも、難しいところがあるかもしれません。
実際に本を書いた人に会って、その人からの話を聞くことで、文字ではわからなかったことがはっきりする場合があります。
中には、ビジネス的に、わざと文字(本)ではわかりづらくしておいて、自分たちの開催するセミナーで本当のことをわかりやすく、詳しく話すという手口もあります。
そのような意図的なものはなくても、やはり実際に話を聞いて、説明を受けたほうがわかりやすかったということは多いでしょう。
これは、言葉を聞けたからということだけではないと思います。
やはり、「人間」「肉声」に直接ふれたということも大きいでしょう。
直接会って人から話を聞くということは、音声と言葉の意味以外の、いわば「人間全体」から発せられるものが、単に言葉や文字だけの時よりも、情報量が多いと推測されます。
声や態度、視覚、感情などか入ることにより、雰囲気としてのニュアンスも伝わり、メッセージの質と量が違ってくるわけです。
ですから、そう考えると、文字で読むだけ(本)より、さらにそれを書いた人やそのことを伝えたい関係者から話を実際に聞くほうが、情報伝達の意味で有意義ということになります。
ただ、マルセイユタロットの「斎王」は、本を手にしていますが、読んでいるようにも見えないので、別の情報源があるのかもしれませんし、本の読み方、接し方は我たちが一般に思うものとは異なっているようにも感じます。
それはさておき、文字と言葉というものは、非常に大切なものではあるものの、本質や伝えたいことが、必ずしも完璧に表現できるものではなく、むしろ解釈、人、それを扱う集団、グループによって変わってしまうものと理解しておくとよいでしょう。
文字と言葉は、一種の具体化方法であり、個別化・個性化の手段と言えます。
どの文字を使い、どの言葉を話すかは、自分の個性を決めると言っていいものがあります。
ということは、言葉や文字の扱いを変えることで、自分を変えることも可能なわけです。
気をつけて見れば、似た者同士というのは、同じような言葉回し、言葉使い、文章の書き方などしているのに気がつきます。(ブログとかSNSを見るとよくわかるでしょう)
もうひとつ言いますと、同じ言語や文字のシステムを共有するものが、同じ思想やレベルを保ち、これが非常に特殊(な言語・文字)になれば、特別な言語と文字による秘匿された集団を形成する(ある秘密を守る、鍵をかける)ことができます。
タロットの場合は、文字や言葉というより、絵で見る視覚的なものがメインです。このことから、タロットは、通常の言葉や文字で伝え合う性質・レベルとは異なることがわかります。
神や天使、心や精神、霊的な世界というのは、人間の言葉・文字では表しにくいものです。
マルセイユタロットには、そうした、いわば次元の異なる世界間とのコミュニケーションを可能する絵の文字・言葉があるのです。
私たちは結局、文字や言葉でわかったふうになっているかもしれませんが、その文字・言葉は、ニュアンスや本質として、本当に全員共通の理解(意味)があるかどうかと考えると、実は、誰一人として、同じ言葉・文字の意味を持っていないのかもしれないのです。
ということは、本を読んでも、話を聞いても、本当のところ、一人一人の世界観と意味によって解釈され、誰もまったく同じ意味として思っていない可能性もあるのです。
同時に、それでも共通理解のようなものが人同士でできているということは、純粋に文字・言語で理解しているのではなく、ある種の心、本質、元型といわれるような、エネルギー的なもので感じているのかもしれません。
「わかる」「わかった」ということが、頭の理解と、感情・感覚の納得、ともに必要なのは、このような理由もありそうです。
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