「吊るし」の反転性が重要

マルセイユタロットの「吊るし」は、特殊なカードと言えます。

ほかのタロット種でも、このカードに該当するものはありますが、「吊るされた男」とか、「吊るし人」という名前が普通で、マルセイユタロットの「吊るし」とは解釈が異なっているように思います。

どうしても、一般的な名称では、吊るされていること、吊るしているという見方が主になり、「吊り」状態が受動的になっている印象です。

ともあれ、吊されているにしろ、自分から吊しているにしろ、私は、「逆さになっている」ことの姿勢が重要だと感じています。

「逆さになって見る」というのは、言わば、物事をすべて反転させてしまうようなものであり、それがポイントだと考えられるのです。

「逆もまた真なり」という言葉があるように、まったく正反対ということは、対立する別の概念や意味とは限りません。

逆さに見た時は、確かに見え方はまったく変わりますが、実はそれこそが真実の見え方だったり、隠されていたものだったりするわけです。

逆転する、反転するということは、今までの認識が180度変わるわけですから、混乱するのが当たり前です。

逆から見た世界も、また真実なのだと告げられた場合、それまで自分が見ていたものは何だったのか・・ということになります。

今までの正立状態というのは、「完全」というものを片側・反面からしか見ていなかったのであり、逆さになることで初めて全体を見たことになるわけです。

私たちは正面を向いていますが、その反対の後ろ側は常に見えておらず、残念ながら、人間の視点は360度、全方位を一度に見るようにはできていないのです。

従って、正立(逆さまになっていない通常状態)の時でさえ、半分しか見ていないことになります。

これに加えて、逆さまの位置というものを入れますと、正立と反転(逆さ)での半分ずつ、都合、正立の前方と後方、正逆のそれぞれの前方・後方と合わせると、これだけでも4つの視点を持たないと、なかなか完全・全体というものは見えてこないことがわかります。

また、「逆に考える」ということは、さまざまな示唆を与えます。

言葉の順序・位置を入れ替えただけで、意味やニュアンスが変わってしまうこともあります。

例えば、「好きな仕事をすれば、幸せになれる」というのが、「幸せになるには、好きな仕事をするしかない」という風に、反対に言葉を入れ替えて書くと、何か前者の文章と後者のそれとでは異なることがわかるでしょうし、自分の思い込みとか価値観というのも明確になる場合があります。

それから自分が正しいと思っていること、信じていることが、まったく逆、つまり間違いや不確かで信じられないものと仮定するとどうなるのか?と考察してみるのも面白いです。

さらには、つらいことや悲しいことがあれば、その経験の中で、反対のいいこと、楽しいことはないかと逆転させて考えてみると、心が楽になれる場合があります。

ネガポジ反転といわれるように、物事のよしあしは、まるで正反対のもの同時に含みます。

好調の時には、すでに不調の兆しが始まっており、不調の時は好調の種が蒔かれています。

人生には、これまでの自分の価値観を全く反転させるようなことが、いつか起こります。それは内的なこと、外的なこと両方の意味において存在します。(発生する可能性がある)

そうした時、私たちはこれまでの自分を象徴的には一度死なせて、再び、全く新しい状態で再生させなければなりません。

霊的な意味合い、覚醒の意味では、私たちのほとんどが、まだ「逆さ」にもなっていないと言えるでしょう。

自分が「吊るされる存在」ではなく、自ら「吊るす(逆さになる、反転する)」ことのできる者であり、また(何者かに)吊るされていることにも気づく必要があります。

「吊るし」を体験すると、自分の見ていた「世界」は反転し、常識が非常識、非常識は常識へと変わるでしょう。注意深く見れば、マルセイユタロットの「世界」のカードと、「吊るし」の関連性も見えてきます。

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