ジャッジする自分は悪いのか。

よくあるテーマで、最近も、タロットリーデイングのクライアントの方と話題になったことがあります。

それはマルセイユタロットで言えば、「正義」のカードと関係する話です。

スピリチュアルや心理関係に興味を持ち、自己を分析したり、成長しようと頑張ってきたりすると、必ず、「ジャッジ」という問題に行き当たります。

ジャッジの問題とは、人や物事に対して、自分が評価を下してしまうということであり、シンプルに言えば、あれがいいとか、これが悪いとか決めてしまう心の傾向のことですね。

そして、おおむね、これについて、「ジャッジしないことがいい」とされています。

「ジャッジしないのが成長の証、心理的・スピリチュアル的な成長」みたいなことで言われるわけですよ。

でも、そうは言っても、ジャッジしてしまう自分がいる・・・ということで、私はまだまだだとか、ジャッジしてしまう自分ダメ・・・みたいに思って落ち込んでしまう人がいます。

これについては、まず、前提に大きな矛盾があるということを冷静に考えるとよいです。

ジャッジしないほうがよい、ジャッジする者は未熟、この設定自体、ジャッジしている(いい・悪いの視点で見ている)のです。

おそらく、ジャッジについて(ジャッジの問題について)、もともと言われていたのはそういうことではないのでしょうが、ジャッジする自分のことを気にしている方は、ジャッジすること自体の問題を、すでにいい・悪いで見ていることに気づいてください。

「じゃ、私はますます二重のジャッジ(自分自身が日々ジャッジする問題と、ジャッジするしないという問題を扱うこと自体の問題)の意味で、余計未熟だったんだ!」とふさぎ込む(笑)かもしれませんが、気づくことは大事ですから、気づいたあなたは自己基準で成長しているのです。

それから、ジッャジする・しないの基準を、自分(自己)基準で見ているか(絶対評価で見ているか)、他人基準で判断しているか(相対評価で見ているか)を考えてみましょう。

たいてい、ジャッジのことで悩んでいる人は、他人基準で見ています。

すなわち、何かとても聖人君子のような理想のモデル、スピリチュアルを極めた人とか、悟った人とか、あるいはそこまで行かなくても自分の師匠とか先生とか、そういう類の人を想像していて、「おそらく、そういう人はジャッジなんてしないはず・・・」と思い込み、そのような(自分が思い描く理想の)人の基準で自分のジャッジ具合を比べているわけです。

ここもすでに二重のジャッジ(自分自身の日々のシャッジへの思いと、理想の人の基準で見る自分へのジャッジ)があります。

さて、ここで、私が一番、ジャッジに関して言いたいことを述べます。

それは、この現実の世界で、人間ならば、ジャッジすることが正常である(普通である)ということです。

言い換えればジャッジすることが現実存在(実存)として、生きている実感を味わえることになります。

なぜなのかを説明すると、実はかなり複雑になりますので、あえて簡単に言いますと、この現実世界は個別世界、すなわち、一人一人違う個性を持つことで成り立つ世界だからというのが理由となります。

その「」こそ、私たちを現実と認識させている見方であり、構造と言ってもいいのです。

つまり、違いがあるのが当たり前で、違いを自覚するのも当然、それにいい・悪いの差をつけてしまう見方になるのも仕方がないわけなのです。

ただスピ系などで、「ジャッジしないようになる自分」と言われているのは、自分が思う、いい・悪いの判断のレベルを上げましょうということだと私は思っています。

いい・悪いを判断する基準とは、別の言い方をすれば個人の価値観になります。

価値観はその時代の国や社会、自分の属する集団・組織などで形成される一般的なものと、一人一人の個人的なものがありますが、ここでは個人的なものが主となります。

誰もが何らかの形で、自分の価値観を持ち、それによってジャッジ・判断を下すわけですが、その価値観の基準が自分なりに変わってくると、当然、ジャッジも変化していくわけです。

それが結果的に、前のジャッジしている自分より、今の自分のほうが、ジャッジをしていると思うこと自体も少なくなったし、ジャッジする対象や物事も変わったというようなことになるのです。

変化ですから、レベルでいえば、上と下のようものがあり、下がることもあれば上がることもあります。

上がるというのは、価値観が前のものより統合されたり、多角化されたりしたことで、モノの見方が変化し、前の時点でのいい・悪いがの線引きが消えたと思っていい状態です。

わかりやすい表現で言えば、以前腹が立ったり、感情が乱されたり、いいとか悪いとか判断していたりしていた基準(線引き・限界点)そのものが変わったわけで、ですから前のものには感情は反応はしなくなるのです。

下がるのは、逆に前より沸点や限界値が下がるか、色が白黒はっきりと線引きされるようになって、感情の反応が低いところで起こるようになると言えばよいでしょうか。

ま、とにかく、ジャッジするのは人として当たり前で、しっかり生きている証拠だと思えばいいです。(笑)

で、ジャッジする自分をなくそうとしたり、批判したりするのではなく、単純に価値観が変わる体験をしたり、自分のモノの見方のレベルを変えてみたりしてみましょうということなのです。

要するに、自分のジャッジの基準、モノサシを変えるわけです。

で、ジャッジする基準の変化は、感情ベースなアプローチと思考ベースのアプローチに大まかに分けてあり、前者が自分のハートとか素直な心で見るみたいなことで、よくスピ系で言われているものです。

ですが、これも誤解がすごくあるのですが、感情ベースより思考ベースのほうが合う人がいて、思考でもって視点を多角化することで、モノの見方の基準をレベルアップさせることができるのです。

まあ、思考のほうは、知識を増やすとか、お勉強によってみたいなことになりますが。(笑)

思考がジャッジを下しているから悪いみたいな話がありますが、感情が好き嫌いで判断していることもあるのですよ。そして思考が高度になれば、ジャッジレベルもまったく変わってきます。

でも、やはりどちらのベースにしても、そのレベルや段階において、ジャッジの基準はありますから、ジャッジしてしまう自分を責める必要はありません。

注意すべきは、まったく同じ基準でずっとジャッジが続いている自分の場合です。

他人とジャッジの具合を比べても意味はありません。あくまで自分基準です。

自分が成長しない基準で堂々巡りを繰り返していたり、反射的にジャッジが続いてしまっていたりして、それを自覚しないでいること(ジャッジしている自分を自覚することと、そのジャッジしている自分を責めることとは別ですから注意してください)が問題なのです。

ということで、ジャッジ(する自分)も楽しんでしまいましょう。楽しむコツは、「何によって自分はいい・悪いの判断をしているか」の基準を、自分で自分を愛おしく見ながら(笑)考えることです。

そうすると、現実の世界の仕組みやすごさ、そしてそのからくりに気づいてきます。

マルセイユタロットで言えば、「正義」を超えて、「隠者」から「運命の輪」への気づき・覚醒と関係していると言えましょう。

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