恋人と審判による選択性の違い
マルセイユタロットの「恋人」と「審判」は、非常に絵柄の構造的に似ているカードです。
間違いなく、意図的に似させていると考えられるもので、その根拠もまさに絵柄自体と、その象徴にあると言えます。
一言で言えば、ふたつのカードは、あること(同じこと)のレベルや次元の違いを表しているのですが、これは、何もこのふたつのカードに限ったことではなく、ある基準をもとにしたカード同士たちに言えることです。
もっと大きなことで例えれば、宇宙やこの世はそういう仕組み(ある本質を、次元やレベルで違えているもの)でできていると思わせます。
こうした次元の違いをリーディングにも入れることができるのが、マルセイユタロットのよいところであり、また実は難しいところでもあるのです。しかし、このことがわかってくれば、とても物事の理解が早く、確実になります。
さて、「恋人」と「審判」の、その次元・レベルの違いは、具体的に言うとすると、これまたいろいろあるのですが、今日は、「選択の自覚性」という観点で述べたい思います。
簡単に言えば、「恋人」カードは、自己の選択について真の意味で自覚しておらず、「審判」のカードのほうは、それを自覚していると考えられます。
今はそれがなぜこのカードたちから言えるのか?ということより(それはタロット講座で説明する範囲です)、そうしたふたつの選択の違いがあるのだということを理解されるとよいでしょう。
私たちは意外にも、自分の選択において、自覚していないことが多いのです。まさに選ばされている感覚とでもいいましょうか。
例えば、買いたくもないのに買ってしまったもの、食べたくもないのに食べてしまったもの、気乗りがしないのに誘いに乗ってしまったこと、本当はやりたくないのにやってしまったこと・・・などなど、思えば、「なんとなく」や、はっきりとした理由もなかったり、何かの迷いや葛藤があって、渋々のような形で選んでしまったりすることがあります。
その迷いそのもの(自分が迷っている、葛藤していること)については自覚している部分もあるのですが、なぜ迷ってしまうのか、どうして自分の気持ちに正直になれないのかが、今ひとつ確信が持てず、あるいは、ふたつの間のどちらを優先していいかわからず、悩むわけです。
一方、最悪なのは、本当に無自覚で、周囲や雰囲気に流されるままに、選んでしまっていることです。
いずれにしても、自己の選択において、自覚がない場合は、結果的に自分が選んだという感覚がないため、責任の所在があいまいで、だからこそ、環境や運、他人のせいにすることがあるのです。
すると、自分の人生を主体的・創造的にできず、ほとんどのことは、他人や外側、結果、さらには目に見えているものを中心で評価する姿勢になります。
言わば、自分で何とかするのではなく、誰かが、恋人が、配偶者が、友人が、神様が、幸運が、偶然のお金が、趣味が、与えられる仕事が、自分を何とかしてくれるという思考になるわけです。
こうした状態は、マルセイユタロットのほかのカードでいえば、「運命の輪」の中でグルグル回っている様子とも言えます。
これに対して、自分がなぜそれを選ぶのか、行うのかをきちんと理解し、選択における自覚が行われている場合、当然迷いなく決断しているわけですから、物事もスピーディーに運び、その分、結果も早くついてきます。
たとえ結果が思わしくないものであっても、それは自分が選んだものであるという自覚がありますから、自己の責任であるということが明確に意識されます。
自分の責任ですから、自分でまた改善すればいいのだという切り替え、またはあきらめ(手放し)も早いということになります。
また、ここが一番述べたいことですが、自覚した選択であれば、他人がどうこういうことではなく、あえて人が見て苦労する道とか、困難な方法とか、はちゃめちゃと思える人生を選択するのも、その人の自由だと言えます。その人はそう自分で自覚し、そのように歩みたいと思っているわけです。
いわゆる「一般的な、常識的な幸せ」な人生でなくても、その人の魂が望む意味での幸せならば、一般範疇での幸せ概念からは、はずれることもあります。
ですが、そうしたことを自覚せず、ただ「人と違ったことをする私かっこいい」とか、理由もわからず、いつも本質的に同じ選択を繰り返し、一般的な意味での不幸と思える人生を送っている場合は、マルセイユタロットの象徴的には「恋人」カードの問題状態のままと言えます。
「審判」はそうした人に覚醒(自覚)を促すカードです。
「審判」が、リーディングにおいて登場する時、それまでのレベル・次元から上昇することを示唆すると同時に、自分が自覚して選択しているかどうか、見直す必要があると言えます。
しかしながら、そうしたことに導かれるのも、無自覚な選択によって、自分が困っている状態、迷っている状態、悩んでいる状態を経験しているからにほかなりません。
そこに、聖なる祝福性を気づけるかどうかが重要なのです。
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