「聲の形」「君の名は。」コミュニケーション。

今年はアニメ映画、「君の名は。」のヒットにより、普段アニメを見ない一般の方にも、アニメに接していただいた年と言えるかもしれません。そして、「君の名は。」に隠れてしまっていますが、実は、もう一作品、皆様にも見てもらいたい良作のアニメ映画があります。

それはアニメファンの間では有名な、京都アニメーションが制作した「聲の形」(こえのかたち)という映画です。

耳の障害を持つ子が、主人公の一人(正確には本当の主人公に関わる最重要人物)として出てくるので、多くの人はこの映画を話だけ聞くと、障害者がテーマの映画だと勘違いしてしまいますが、実は、この映画は、人間同士の「コミュニケーション」という普遍的なものがテーマと言えます。(それだけではないのですが)

障害を持つ子はそのシンボルという役割になっていて、実のところ、どんな人の部分にもある、共感性と逆に排他性のような、複雑な心の多面性を、それこそ多彩で高度な象徴をもって描いています。

私はかつて「君の名は。」のことをブログで書いて、マルセイユタロットで言えば、「斎王」と関係する物語と評しましたが、この「聲の形」は、面白いことに、マルセイユタロットでは「斎王」と特別なコンビネーションを形成する「法皇」と関連する映画だと感じています。

「法皇」は、いろいろな意味がありますが、特に、「伝える」というコミュニケーションを示唆してるカードであるからです。

また、「君の名は。」が、いわば、時空を超えたファンタジー的な結びつきを表現していたのに対し、「聲の形」は現実的・リアルな人間関係(舞台は学校ということで、その集まり、組織も重要です)の意思疎通を描いていました。

前者が時空を超えてもわかりあい、伝わり、理解し合うものなのに対し、後者は同じ空間と時間を共有しながら、しかも気持ち的には決して最初から排他的なものを持っているわけでもない中で、集団とその力学、人間のエゴなどによって、伝わりにくく、誤解してしまうこともある私たちの生活においての現実性を見させてくれます。

そして、さらに言えば、「君の名は。」の中においても、時空を同じにする者たちの間では、理解が難しい点は多少表現されていました。(ただしその現実的和解や理解は見ているほうに想像させる手段を取っています。これを放置とするか、あくまでファンタジー性のほうをメインとしていたため、あえてそうしたのかは評価は分かれるところです)

一方、「聲の形」にも、時空を超えた理解と言いますか、シンクロが起こるシーンがあり、これは現実的な物語性からすると、かなり異質とも言えるものなのですが、そういうことも起こりうることを、それまでの象徴的なシーンの積み重ねで表現しています。

それから、「君の名は。」にしても、「聲の形」にしても、違う性質もの同士(たとえば異性同士)の結びつきが、現実空間で「生きる」「存続」を協力し合う力となること、それが永遠性(死であったり、反対の現実を超越する力であったり)にも関係してくることが描写されているのは、今のこの時代で、日本の映画だからこそという気もしています。

私はこのふたつの映画を観まして、特にコミュニケーションということにテーマを絞った時、まさにマルセイユタロットで言えば、「斎王」性と「法皇」性、さらには「太陽」、「審判」や「恋人」などのカードとの関連も見て取れました。

すなわち、私たちには現実的なコミュニケーションと非現実的なコミュニケーションがあり、また言い方を換えれば、言葉や文字などで、「形」として成っていて、意味がわかるものとして伝えられる形式と、言葉にならない声とか、テレパシーのような声なき声、はっきりとしていない何かインスピレーションのような感覚のもので伝え合ったり、伝わってくる、「形が見えないもの」の形式があるということです。

見えないほうは、時空や現実性も超えて、時にはロマンのように、ソウルメイト、過去生つながりような人同士を繋げることもあるでしょう。

立場や性別、年齢、国籍さえ違っても、何か同じ部分で共感できると言いますか、同じ使命・意志をずっと共有し合う仲間のような、そんな人たちとひかれあい、声なき声でコミュニケーションが可能になることもあります。

一方、人は、ひとつの時空の決まった中での人生を過ごします(個人としての一生)。

そう、現実的な人生・生活です。ここでは、ロマン性もありますが、多くは現実性の認識、きちんとした形というものが求められ、コミュニケーションにおいても、はっきりしたものが要求されることが多いです。

しかし、伝えたくても伝えられなかったり、伝わらなかったり、些細なことで誤解を呼んだりすることもあります。本当の心が、言葉や形・環境・やむを得ない現実の選択によって、曲げられているような感覚です。

そういう場合、形の見えないコミュニケーションが救いを呼ぶことがあるわけです。

ですが、きちんと形として伝えないと伝わらないこともあるのが、この現実の世の中です。

現実的な形あるコミュニケーションもあれば、心や見に見えない感覚でのコミュニケーションもあり、その両方を人は持っています。現実に生きる意味では、実はどちらも重要なものなのです。

現実的なコミュニケーション、あるいはひとつの人生・時代での伝わり方が困難で、誤解を生んだままでも、時空を超越して見れば、そういったことも表面を覆っていた鎧やコーティングのようなものとしてはがれ落ち、真実でわかりあえる瞬間が来るかもしれません。

そう思うと、いつの時も救いはあるのでしょう。

それと同時、現実の今の人生の期間においても、形として一歩踏み出す勇気もあれば、よいのかもしれません。

難しいから面白い、それが人間同士のコミュニケーションと言えるでしょう。

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