タロットを学ぶ人のバランス

マルセイユタロットには過度にスピリチュアル傾向になることも、また反対に唯物主義と言いますか、霊的・精神的なもの、見えないもの、感覚的なものなどを退けてしまう傾向にも、どちらへも傾き過ぎないバランス機能が働きます。

とはいえ、全体・普遍としてはそうなのですが、個人それぞれの特質、価値観もありますので、人である限り、その影響は必ず受けます。

よって、同じマルセイユタロットを学んでいても、やはりどちらかに傾くところはあるわけです。

ただ、タロットが好きとか、タロットを学びたいというように人は、多かれ少なかれスピリチュアルな傾向を含みますから、物質的・論理的な傾向と言っても、あくまで一般のものとは違っていて、スピリチュアルなことに関心はあるけれども、何か自分の中で整合性や論理的な理由がほしいものが強い人となるでしょう。しかしそのような人でも、普通の人よりは、十分スピリチュアル(苦笑)なのです。

今の時代は、インターネットの普及によって、莫大な情報に接することのできる反面、SNSに参加する人も多くなって、実は、逆に友達とか仲間内とか、スモールな世界、似たもの同士がつながり合い、情報交換しているようなところがあります。

似たもの同士と言いますか、同じ趣味志向性を持つ人たちとのつながりになりますから、そこから入る情報も、当然偏っているわけです。

すでにご存じの人も多いように、SNSではデマ情報も数多く存在します。時には、意図的な操作のために、ある情報がセンセーショナルに流されていることもあります。

今では画像や動画も簡単にねつ造・加工が可能ですし、その画像自体は事実であっても、書かれている文章とは関係なかったり、時期が異なっていたりということはよくあるケースです。

また、誰もが簡単に自分から発信できるようになりましたから、思い込みだけで書いているものもあるわけです。

自分から発信が容易にできるということは、反対に、どうしても人に認められたい、自分の発信していることに共感してほしい、反応してほしいという承認欲求が過度に刺激されることになりますので、勢い、自意識過剰な中二病的(笑)な発言とか、客観的要素の少ない感覚的なもので書かれたものも増加していくことになります。

話がそれてきましたが、何が言いたいかと言いますと、タロットをするような人は、もともとスピリチュアルな傾向がある中で、さらにSNSの活用によって、同じ性質の人たちとの狭い世界と情報に偏る(過度のスピリチュアルな偏りの)ところが出てくるということなのです。

その偏りが迷信の域にまで来ているところがあり、「スピリチュアル」が悪い意味でのオカルト化していることすらあります。(本来の「オカルト」の意味は、今の一般の使い方のような意味とはニュアンスは異なりますが、ここでは一般の意味で使用しています)

悪く言えば、非現実的、逃避的、退行的傾向が助長される(されている)ということです。

非現実的、逃避的、退行的と書いたこれらの傾向は、実は解放と自由との背中合わせにあるものです。

つまり、常識や当たり前の全体価値観に染まってしまい、大人として正しくふるまわねばならないという縛りによって、本来の自分、自由性を持つ自分を失った状態に、楔を打ち込むのが非現実的なものにあるのです。

よくインナーチャイルドの問題が心理的には問われますが、霊的な観点では、インナーチャイルドの問題は、必ずしも悪いわけではなく、魂の純粋性や神性への回帰、そのうずきとして起こってくることがあります。

その過程では、一時的に退行的になったり、空想的になったり、引き籠もったりもあると考えられます。

こういう場合は、いわば正しい退行みたいなところもあるのですが、仲間内、あるいは登録しているSNS(の友人・グループ)から流れてくる自分の好きな情報で、承認欲求を慰め合い、自分たちの傷をなめ合って、言わば子どもへの退行のような現象を起こしている人も少なくないのです。(これらも全部悪いわけではなく、一時的には必要なこともあります)

いろいろな心理的・スピリチュアル的知識と技術を求めてさまよい、大量のお金と時間を消費していく人もありますが、その人たちの中には、結局、承認欲求が働いていることがあるのです。

「自分を見つけたい(自分探し)」というのは、自分を自分として承認したいという欲求につながっており、それが自分による自分への承認ならばいいのですが、つまるところ、他人からの承認へとすり替わっていくことが多いのです。(実はその「他人」とは誰かに気づくためのの作業でもあると言えます)

心理的には、たいていこのようなケースは、自分の親や、これまでの人生で、心理的に重要な位置を占めていた人からの承認(が欲しかった)ということが見られます。

過度のスピリチュアルに傾いたり、まずい退行状態に足踏みしたりすることのないように、やはりバランスが大事であり、疑いや反感が出る自分も認めること、違和感を放置しないこともポイントです。

またスピリチュアルの世界では、常識的なことは嫌われますが、常識との葛藤・悩みはバランスの意味でも、自分の成長の意味でも重要なことなのです。

何事も、そしてどの世界にもルール・段階があること、おいしい話や、一足飛びに進むことは、それなりの危険性・リスクがあること(格段の飛躍はできないわけではありませんが、やはり、それなりのできる理由とリスクがあります)

しかし、リスクは反面、冒険・チャレンジでもあるので、ずっと慎重であり続ける必要もありませんが、現実世界における物理法則のような法則性がある(その法則性の性質は異なりますが)ことは、見えない世界を扱う場合でも、理解しておいたほうがよいでしょう。

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