愚かであることを知る「愚者」

タロットでは、「愚者」というカードがあります。

タロットカードの中でも、特殊中の特殊なカードであり、タロットと関連を持つトランプカードにおいてもジョーカーとして残っています。逆に言えば、ジョーカー的特別性を持つのが、タロットの「愚者」とも言えます。

マルセイユタロットでも、当然、この「愚者」のカードが存在しますが、このカードは数を持たず、そのため、何(の数)にも規定されない自由さを持つと言われています。

「愚者」(に描かれている人物)は、その名の通り、愚か者と見られるわけですが、マルセイユタロットの「愚者」は、本当に愚かという感じには見えません。

それどころか、むしろ知性的で明確な意志を持っているかのようにも見えます。そのため、この「愚者」から、いろいろな解釈が成り立ってきます。

その中には、「愚かさ」についての種類があるということが出てきます。

ひとつは、無知に基づく、本当の「愚かさ」で、そしてもうひとつは、一度、知を獲得しながらも、あえてそれを捨てるような「愚かさ」です。

前者は自分を愚か者ではなく、むしろ自分は賢いとか、普通の人だと思っていることが多いですが、後者は、自分が愚かであることを知っており、むしろ積極的に愚かであろうとしているとさえ言えます。

このふたつの愚かさの間には、愚かさを軽蔑し(嫌い)、そこから逃れたいと思う段階(知を求める段階)と、反対に、愚かさにあこがれ、愚か者になろうとする段階(常識に反抗する段階)とが混合(混在)します。

「愚かさ」「愚か者」というのを、変わり者、アウトサイダー、世間の常識に従わない者とすると、またこの混在段階もわかりやすくなります。

一般人から見れば、自分たちのルール・常識から、はずれる者は「愚か者」と見られることがあります。

一方で、非常識になることで、注目を浴び、自分の価値を上げようとする者もいます。(結局、自尊心の低さや不足を思う感情から来ており、常識はずれを志向しながら、他人の評価を気にするタイプです)

ルールや規則を破ったり、ちょっと人と違ったことをやったりして非常識になること、変わり者を演ずることは、むしろ簡単なことです。悪(ワル)を演じるとか、非行にちょっと走って粋がってみるなどの感じがこれに近いです。

難しいのは、ある常識の範囲内で、外側や見た目は調和させながら、自らのうちに非常識を受け入れるということです。

もちろん、見た目も内側も変わり者という変革者、アウトサイダーはいてもよく、また、いついかなる時代や状態でも、常識的範囲を超えた人というのは生まれるものです。こうした人は、いい意味で破壊者となって、社会や固まった常識、枠を変えていきます。

ただ、人からよく見られたい、一目置かれたいという承認欲求から来ている、仮の愚か者、愚者は、人から見れば痛々しいところ(もっと言うと哀しいところ)があり、自分の「愚かさ」を知ったほうがよいでしょう。これは「星」の女神に癒されなければならないかもしれません。

一方、一度ある常識に収まりつつも(ある段階の知性を獲得した後)、そこからさらなる成長や飛躍のために、これまでの常識や知識、信仰を捨て、自分が生まれ変わる(変身する)ために、あえて愚者になる道があります。

哲学者のソクラテスが述べた「無知の知」を想起させるような態度です。

マルセイユタロットでは、真理の道を志す時、自らが「愚者」(のカード)となるのだという示唆があります。

改めて、自分が自覚する「愚者」となる時、自身の変容作業が始まるのです。

それゆえ、マルセイユタロットの「愚者」と「13」は、絵柄的にも関連するように描かれています。

さらに、「愚者」が賢者と出会う(自分の愚かさを知って真理の道に進むと、自らが智者的な「隠者」となることが暗示されている)必然性を示すように、「愚者」と「隠者」にも、関係性をマルセイユタロットは象徴させています。

自らが愚かであることを思えば、人生、気にすることも少なくなり、まだまだ成長できること、隠された真実を知る喜びも生じてきます。

愚かであることを知る愚かさ」は、他人と自分の、様々な部分を受け入れることのできる輝きと言えましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top