「節制」から「救い」の種類を考える。
自助・共助(互助)・公助という言葉があります。
自分が困っている時や悩んでいる状態の時などは、この3つの観点(救い方・救われ方)を考えるのは、意外に重要です。
また、どれかひとつだけと思ったり、何かに過剰に助け・援助を集中させてしまったりするというのも、バランスにおいて問題となることもあります。
例えば自分だけで何とかしようとしたり、他人からは、「自己責任」の一点ばりで言われたりするようなこと、反対にべったり誰かに依存したり、行政や他人ばかりをあてにしていたり・・・というケースなどです。
マルセイユタロットにおいては、「救い」「救済」をもっとも象徴するのは、天使が描かれているカードで、「節制」と言えましょう。
しかし、「天使」の象徴自体、救いのエネルギーとしてとらえると、大きな意味では「審判」もそうでしょうし、「世界」とか「恋人」でさえも、天使が描かれているものとして見ると、救いのカードと言えるかもしれないのです。
ただ、その救い方、救済として現れる質・次元・表現が異なるのです。
また、「節制」を基準にして考えると、「戦車」「節制」「世界」は「7」という聖なる数をもとにして並べる(7の倍数として整列する)ことができます。
「戦車」が自分で馬を操り、動かしているところから、「自助」的な救い
「節制」がふたつの壷の水を交流させているところから、「共助」的な救い
そして「世界」は、4つの生き物に囲まれた中心に人物がいる様子からして、「公助」的なと救いがイメージされます。
私たちの世界は、こうした3つの救い方・救われ方をもって、皆が生きていると言えます。
特に、この現実世界は個人個人の違いをもって全体が存在する世界です。
言ってみれば、人としては皆同じでも、一人一人は個性があるわけです。違って当たり前の世界です。
ということは、これは病気への抵抗や免疫にも言えることだと思うのですが、まったく同じ性質や状態の者だけの集合体では、ひとたび未知なる問題・危機・病気が発生すると、全滅の恐れがあります。
ところが、一人一人違うものを持っている集まりでは、何人かはやられる傾向を持つかもしれませんが、対抗できる素質をもった人もいる可能性が、皆同じ性質の時よりも高まります。
その性質を今度はシェアすることができれば、ほかの皆も助かる可能性があるわけです。いわば、誰かの抵抗や免疫で生まれたワクチンが、皆にも使えるようになったという感じです。
このように考えると、まさにこの現実世界は、「助け合い」のためにあると言ってもよいかもしれません。
一方で、それぞれが違うために比較したり、主義主張、権力・支配の争奪で争ったりということが起きやすいのも確かでしょうが、同時に、違いがあるからこそ、他人を助けることもできるのです。
よく、「答えは自分の中にある」と言いますが、それはたとえそうであったとしても、困った時、悩んだ時というのは、普段以上に混乱しているわけですから、心の整理など冷静につくはずがなく、だからこそ、自分の中の答えを発見したり、それに至りまでのサポートを受けたりすることでの、他人の目・力が必要となるのです。
他人に相談する意味のひとつは、そこにあると言えます。
つまり、自力だけでの助けでは、救われることが難しいのがこの世界では当たり前なのです。だから、他人や組織、集団、公的な援助も含めて、自らの救いを考える(求める)とよいのです。
特にカードで「節制」が出る時は、自らが独善的になって、自分自身でやれる・救えると思ったり、他人や自分を愛なく支配しようとしたり(簡単に言えばお節介)する場合のことがあります。
こんな時には素直に自らのハートを開き、人に救いを求めたり、自分のできる範囲で、自分の手を人に差し伸べたりするとよいです。
この世界は他人であっても天使となりうること、また人に対して自分が天使となりえることが、「節制」のカードから示唆されているのです。
それから「助け」や「救い」というのは、何も経済的なことや愛情をかけるというようなことだけとは限りません。
形や行動ではないものもあり、つまりは精神やイメージにおける抽象的なものであったり、知識や哲学的な啓示であったりする場合もあるのです。まさにエネルギーそのものとして感じる人もあるでしょう。
その目に見えない範囲においても、自助・共助・公助という観点があり、自分自身でわかる気づき、パートナーや特定の人など、誰かに諭され導かれる気づき、集団や大きな範疇、高次からもたらされる気づきなどがあると言えます。
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