春分の日を例にして

先日、春分の日を迎え、多くの方が、ここに意識を集中していたように思います。

SNSからの情報の広がりなどの影響もあって、この日を宇宙元年という呼称にしている方も見られ、変化や新しさを強調している雰囲気が伝わってきました。スピ的な世界では、次元上昇やアセンションが行われる日という人もいるようです。

確かに春分の日を境に、新たな意識と行動でリフレッシュしたり、リセットしたりしていくのも、大きな流れと個人の動きをリンクさせ、調和させていくことでも、その一助となるのではないかと推測されます。

ただ一方で、こういった太陽と地球の関係性における、ある種のポイントを見るというのは、実は当たり前のことであり、そもそも暦はそうしてできているものです。

しかし現代では、占星術的ともいえる起点と終点、あるいはその流れ・循環というものがあまり意識されず、現在の起点ポイント・1/1を基に、どちらかといえば、季節や自然の流れにそぐわない暦になっていることで、多くの人がどこか違和感を覚えたり、心と体と時期・季節の巡りに、ギクシャクとしたものを感じたりしている状態と言えます。

ですから、機械的な時期の動きではなく、再び、古代では当たり前に意識されていた性質的な時の流れを感じていくのを取り戻す意味では、春分の日を起点として見ていくのもよいかと感じます。

一方で、それは本当に自分にとってそういうことになるのか? 果たして春分の日はどういうものなのか?など、探求したり、自身で内と外の動きを精査したりすることも求められます。

人がそういうから、そういう時期だから、そういうエネルギーが流れるようになるから・・・とか、情報として仕入れるのはよいにしても、そのまま鵜呑みにして、ほかの人へも、何も考えずに流し伝播させていくというのは、危険なところもあるのです。

これでは、迷信の広がり、災害時のデマの流れとあまり変わらないからです。

宇宙には大きな流れ・循環があるものと想像されます。

それらの究極的な流れ(もともとは動きも何もないひとつのものと考えられます)から、各レベル・次元・世界によって、同じような型・パターンが踏襲されつつも、表現を変えて顕現していきます。

そのうちのレベルのひとつが地球から見た太陽周期であり、その関係性において4のつ重要なポイント(春分・夏至・秋分・冬至)が生まれます。

それは二次元的には、円と直線(交わり・交点)で表されるもので、三次元的には球とその交点で示されます。

これが私たちに機械的に影響するという見方もあるでしょうが、大切なのは、こういった関係性(形・比)が象徴や型・モデルであり、次元と世界が異なれば、別の表現として、とらえられてくるということです。

例えば、4つのポイントは、地球と太陽の関係性の重要なポイントですが、先述したように、図形的には水平と垂直性という直線のうえに、太陽が回転している軌道(天動説的に見ます)との交点、つまり円との交接によって生まれるポイントなわけであり、地球が私たち自身、あるいは常識的な思考性ということであるならば、太陽は自分との関係性の相手だったり、自分の中の高次の自分という「他人や別の自分」として示すことができます。

ということは、自分と他人、あるいは自分自身との関係性において交わるポイントであると見ることができ、その意味で、変化や新規、回帰・リセット、上昇・下降、別離や出会いという実際の現象として現れてくる(こともある)と考えられます。

もちろん象徴的な四季としての流れ、つまり春・夏・秋・冬の循環とも関係し、それらも季節ではそうですが、別の表現・レベルでは違う現れ方をしますし、同時に、本質的には同じ性質を持っているということになります。

マルセイユタロットでは「太陽」というカードがありますが、ほかのカードとの関連性を見れば、こうした季節や時期の流れが、壮大な宇宙周期とも合致しながら、個別にも働いていることがわかります。

そして、それは単純に同期しているのではなく、私たち個人個人の意識と大いなるものはつながっているとはいえ、そのレベルの違いによって、個人としてはまったく違ったように感じられたり、現れたりするということも理解しておく必要があるのです。

要するに、簡単にいえば、「皆が言うからそうなんだ」ではなく、自分にとってはどうなのか?という視点が、実は全体の本質につながる視点にもなるのだという、一見矛盾していますが、そういう考え方も入れるとよいですよ、ということなのです。

信じることは統合の意味でも大切なことではありますが、まずは分離して考えることも重要なのです。鵜呑みにすることと、本当の意味で信じられるかの違いは、精査や検証、実感など「過程を経ているかどうか」(たとえ自分の直感を入れるにしても)によります。

知性ということでそれらを考察していくのもよいですし、感性を深め、自らの感覚と、その奧に流れている全体性のもの、これらを「感じる・観る」というのでもよいでしょう。

いずれにせよ、情報はあくまでまだ情報の段階であり、それはあなた自身では精査されていない(落とし込まれていない)ことなのです。

気持ちのいい言葉に踊らされたり、高揚してしまったりするのには、注意も必要です。

自然の流れとして当たり前にそうなる(傾向)というのがあるわけですし、また、一人一人個性をもっている存在ですから、皆が皆、同じようになる(ならなければならないという)わけでもないのです。

春分の日のあたり、別に何もなかった、感じなかったという人があってもそれはそれでいいですし、人に言われたからとか、雰囲気に流されたからではなく、確かに何か自分は感じた、新しい感じになった、そうのように考察することができたというものならば、それはそれでもいいわけです。

これは春分の日だけに限らないことです。

冷静に観てください。一年のうち、どれほど多くの「変化の日」や、「ここから何か始まる」とか、「これで○○は終わり」とか、多くの人が述べているかを。

すべては記念日、すべては特別な日みたいになっている状態です。(笑)

自分の中に、自分は特別でありたい、自分は進んでいたい、自分は何か目に見えない力で成功したい、自分は取り残されたくない・・・このような思いはないですか?

結局、多くの人が、ある時期のポイントを特別視する背景には、自分の劣等感や優越感のようなものがあり、ことさら心理的な問題が、ある日を特別視しているのです。

言い換えれば、ある「日」「ポイント」を利用して、自分を特別視したい、癒したい、承認されたい、愛されたいという思いの投影になっています。

もちろん、これがすべてではなく、時期的(時間的)なポイントに特別なものがあるのは、場所(空間的)にそのようなところがあるのと同じで、心理的な影響のものではなく、むしろ逆で、そのような特別な時空だからこそ、心理・感情に関係してくるのだということもできます。

ここで言っているのは、春分の日などを無視せよというのではなく、洗脳や迷信に流されるような、退行ともとれる状態にならないよう、自身の知性と崇高な感覚を働かせる見方をしていきましょうと述べているのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top