人間関係、その浄化としての意味。
これはマルセイユタロットでは、「恋人」、「運命の輪」、さらには「13」などにも象徴されることだと考えられますが、私たちの、人との出会いというものは、ひとつには浄化としての側面もあると想像できます。
地球上に多くの人がいる限り、自分と誰か、誰かと誰かが出会うのは必然です。
そこに何の意味があるのかと問うた人は、一瞬の思いも入れると、もしかすると、全員かもしれません。
ただ、人との出会い、関係性は、通りすがり的な、ほとんど意識されない、自分にとって影響のないものもあれば、深く印象を残す、特別な関係となるものがあります。
それは案外と、一緒にいる時間(の長さ)だけとはいえないものです。ほんの少しであっても、強烈なインパクトをもった関係性もあれば、長くいても、空気のように何も感じない人もいるでしょう。
しかしいずれにしても、悪い印象の人であれ、よい印象の人であれ、なにかしら、自分が強く思いをもった人というのは、少なくとも感情的には意味がある人ということになります。
そして、そうした中には、感情が動かされるからこそ、感情に関係する部分と、感情に関係しない部分との相克や葛藤、エネルギーの象徴的言い回しとしては、「燃焼」、さらには「冷却」があるのではないかと考えられるのです。
そして、その作用こそが、いわば、「浄化」というものに関わっているのではなかいと思うわけです。
これは人間関係の中でも、濃密なものである「恋愛」には顕著なことなのですが、恋愛だけとは限りません。
感情で動かされる部分には、それに癒着したものとして、「欲望」もあります。
相手を支配したい、気に入られたい、一体になりたいという思いもあれば、反対に拒否したい、蔑みたい、ひどい時には滅ぼしたい、殺したいというのもあるかもしれません。
さらに奥底には、セクシャルな欲望や、自己存在のアピール(承認欲求)、反対に自己卑下や罪悪感、劣等感、逃避感、依存というのもあるかもしれません。
ともかく、人間の出会いと関係において、特に心を動かされるものは、自分の感情や欲望が渦巻き、それに振り回されることも多いわけです。
こうした葛藤、あるいは喜び(関係が望み通りになると、悦楽になります)が湧き起こる中で、私たちは、環境的・物質的ともいえる現実的な事柄と、それらを超越した精神や、さらに崇高な何か(霊的な部分)の両方を意識することになります。
例えば、恋愛においても、ただ愛し合ったり、相手を意識するだけだったりするものではなく、どうやって相手と現実の時間と空間で過ごし楽しもうかとか、デートプランを考えたり(考えてもらったり)、プレゼントを贈り合ったり、結婚のことまで意識するようになると、結婚生活における諸々の現実生活のことを思ったりするわけです。
そもそもお金というものも、おつきあいで無視できるものでもありませんし、たとえ意識しなくても、必ず二人の時間と場所においてお金は使っているものでしょう。
またお互いの姿や身体も意識するというか、それがあるから、個体同士として意識しあうこと、ほかの誰かではなく、その人との関係ということが際立つわけです。
一方で、そうした現実的・物質的なものだけではない、いわゆる「恋心」とか「愛」「友情」とか、純粋でピュア、かつモノや形として現せられない何かが、関係性においてあります。
目を閉じても感じ合う何か、遠くにいて会っていなくても想い合える何かというような感じでしょうか。
こうして、物質的なことと非物質的なこととの狭間で、特に感情的に動く人との関係は、揺れ動いたり、刺激し合ったりして、燃焼します。
そして、それがやがて穏やかで安定的な関係になろうと、また別れてしまうようなことになろうとも、冷却されて、別の状態へと移行します。
あれほど、心が動いた関係も、今は昔のことのようになり、波が静まり、思い出すと少し波立つことはあっても、確実に以前とは違う状態にはなっていることに気づきます。
そして、さに深く自分を観察していくと、燃焼した心、感情のあとの冷却によって、何か新たな光っている存在に気がつきます。
それは「想い出」のようなものと言ってもよいのですが、単なる想い出ではなく、光のかけらのような、実はもとからあっても気がつかなかった何かなのです。
以前の状態で、現実的なものとの狭間で、純粋なものとして感じていたものが、その現実性との葛藤(対立と融合)によって、新たなものへと変容したものなのです。
いや、先述したように、元からあったものが、自分に意識でも見つけられるようになったと言い換えてもよいでしょうか。
それは大いなる気づきのひとつです。そして、自身の浄化の過程でもあったのです。
この観点から、私たちが、個人的に強い印象を残すような関係とその人は、自分自身の魂の浄化に関わる役割があるものと考えられます。
また特定の人を強く意識してしまうのは(関わり合いたい、関わり合いたくないと思う、双方)、(個の)魂が浄化の機会を求めて、全体の魂の中のひとつと共鳴し、感じ合っていると言ってもいいかもしれません。
大事なのは、必ずしも、それが現実的にはよい関係ではないということです。
自分の表面的、現実的意識のもとでは、むしろ望み通りに行かないこともあり、しかし魂の演出から見ると、浄化過程として適切(になる可能性)であると言えます。
つまり、見た目や、普通の感情と意識の上では、ほとんどは本質的には誤解のままに出会ったり、関係したりしているということです。
だからと言って、人との関係から逃げたり、引き籠もったりしてしまうのは、浄化の機会を少なくしてしまうことにもなります。
無理してする必要はありませんが、人との関係において、自分の中にある神性や叡智、あるいは真の平穏を回復していくためには、浄化の一環として必要なこともあるわけです。
そして滑稽なことに、それら、人との関係は表面的には誤解のもとに成立しており、従って、無理解、葛藤、食い違い、片思い、熱狂、陶酔などのことも、普通に両者の間で起こることになるのです。
それも決して無駄なことではなく、冷却後の自らの気づきによって、大きな恩恵を得ることになります。
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