問題を捨てる、問題探しをやめる。
タロットなどをやっていますと、どうしても人の心とその問題というものを考察するようになります。
ネットで自己発信することが簡単にできるようになったことで、その恩恵も多大なものがありますが、反面、マイナス面もそれと同等に発生しているように感じます。
それの大きな問題点としては、ひとつには承認欲求の肥大、そしてもうひとつには心理的な問題の創造(ねつ造)と囚われがあると見ています。
前者はSNSの活用の発達とともによく問題提起されていることなので、今回は省きます。
問題は後者です。
前にも書いたことがありますが、精神や心理関係のビジネス普及も相まって、それほど気にしなくてもよい自分の心理、感情、トラウマぽく見えているものなどに対して、無理矢理掘り起こされ、それを癒す必要があると、一斉に皆が求める風潮に置かれていることです。
ただそれは、よい言い方をすれば、むしろ今までがおかしくて、自分の精神・心理状態への配慮・ケアーがあまりなされていなかった時代があり、ようやく、そういう部分の治療・調整まで、一般の人が理解を示すようになったとも言えます。
すべて気のせいとか、根性なしだからとか、努力が足りないとか、世間がそういうことで片付けていた時代から、変わってきたのだと。
これもカウンセラー、医師、精神的ケア・セラピーをされる人、心理・精神・スピリチュアルなものへ関心を寄せ、啓蒙を続けてきた方々などの努力があってのものだと思います。
そして、経済原理の中で、ケアーや治療、癒しという目的よりも、ビジネス(お金儲け)としての性格でも扱われるようになました。
それで、勢い、対象となる心理的・精神的・(霊的)問題を抱えたクラインアントを生み出す必要性に駆られ、無駄にクライアントがねつ造され、自分の心の問題にひどくフォーカスされる(宣伝・告知される)事態にもなってきました。
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そういうビジネス目線のものであっても、その技術・ケアー・考え方などで救われる人がいるのも事実ですが、必要以上に自分にトラウマがあると思わされ、また自己の成長・発展のためには、自分の中に眠っている問題を、次々と掘り起こしていかねば、自身の安寧、幸せは訪れないと思い込まされ、いわば、問題という鉱脈・宝をずっと探し続ける炭坑夫(婦)のような状態に置かれている人がいます。
スピリチュアル・霊性からいえば、究極的には個人の問題はないと言えます。
問題というのは、あくまで演出であり、ストーリーであり、幻想でもあります。ただ、その幻想は、普通の現実(と認識していること)でもあるのが厄介なのです。
私たちには感情があるので、確かに、生まれてからの人生において経験した出来事によって、何らかの感情的データは記憶としてあると考えられます。
ところが、霊的真実においては、本質的には何も起きていないので、その感情データはいわば、自らで生み出したデータの一種に過ぎません。
例えば、映画でドキドキワクワクしたり、恐怖したりしたことは、自分の味わう感情としては事実ですが、起こっているそのものは映画の世界の出来事で、現実とは別です。
本質は映画ではなく、映画を上映している大本にありますから、それに気がつけば、映画での感情に囚われることはおかしなことになります。
しかし、確かに味わってしまった感情があるので、感情だけに注目すれば、それが悪いものになっていたとすれば、クリアーにしたり、浄化する必要は出ます。
たとえ映画でも、ものすごく怖いものを見たと思い、日常生活に影響が出るほどになれば問題だからです。
そこで、この「映画」が私たちの「現実」だとしても、現実の中(つまり自分の人生)で植え付けられた感情データのリセット・修正は必要なわけです。
その意味では、確かに心理的・感情的な、特に自分もよくわかっていない潜在的問題は掘り起こすことはいるのかもしれません。
ですが、映画は忘れていたのに、無理に思い出さされ、あるいは、映画を観ても、その時は感情的に強くデータ化されていたわけではないのに、誰かから「実はあの映画は、君にはひどい意味になるんだ」とか、「こういう隠されたシーンがあったの知っている?」など言われて、それからというもの、映画が気になってしょうがないということになれば、ネガティブ感情データ(問題意識)が、ねつ造されたと言ってもいいわけです。
とにかく、ありもしない問題(の意識)を、炭坑夫として、内面・潜在意識まで降りていって、石炭ならぬ、自分の人生を悪くしている原因だという「それ(問題・感情的データ)」を掘り起こしている人がいるわけです。
石炭はエネルギーに変わりますから、要するに、問題を掘り起こすことで、ビジネスを仕掛ける側はお金というものにエネルギーを変換させますし、クラインアントは、自分自身の免罪符、自分が自分でないことの弁解のエネルギー、さらにいえば、生きるためのエネルギー・糧にしているのです。
なぜ生きるためのエネルギーになるのか?
それは、「問題」という、自分にとっての「宝」を探さないと、本当の自分を生きていないという恐怖や誤解と向き合うことになり、そうすると、生きていることに疑問を持ったり、後退を余儀なくされたり、自分自身の価値をなくしてしまったりするからです。
平たくいえば、何か問題に向き合っている私かっこいい、素敵、成長しているという思いになるからです。
話を映画のたとえに戻しますと、実は映画で得られた感情というのも、つまるところ幻想に行き着きます。
いや、たとえその映画から受けた感情があっても、映画を観ている自分という設定そのものがわかれば、感情は自動的に癒される・調整されると言ってもよいでしょう。
「なぁんだ、あれは嘘だったのか」という思いによる安堵みたいなものです。
もっといえば、映画を観て感情を覚えたということも、ひとつのストーリーとして見ることができるのです。
感情データは確かに、映画だという気づきを得るまでは、調整される必要はあるかもしれません。言い換えれば、あくまで常識という現実の中で生きて、一般的価値観の幸せ・平穏を求めるのであれば、ということです。
いわば、心と現実の調整を図る生き方です。
しかし、一方で、あまりに心に原因を求めすぎると、自己の心のさらに奧にある集合的意識の次元まで入り込み(その次元からすくい上げ)、終わりのない膨大な(人類の)データからの感情を拾いあげていくことになります。
それは自分で自分の心理的・感情的問題を生み出し、それを現実の事柄(実際に起こる問題)として認識するシステムの、堂々巡りを意味します。いわば、自らで自分を縛っているのです。
同じような問題を繰り返し見つめ続けている人は、それは自分の問題とリンクはしていても、すでに、他人の問題として取り入れてしまっているか、自分が問題を創らないと(自分が問題を常に意識していないと)、自分の価値がない、言い換えれば自分としてのエゴ・個性が見い出せない(自分が自分であるための要素として問題を生み出す)という負の連鎖に陥っているおそれがあるのです。
問題探し、問題創造の達人(それがひとつのことでも、それにこだわれば悪い意味の達人レベルになります)も、ある意味、個性だからです。
そして、一方では、お金儲け的なビジネスのいいカモになってしまっていることも考えられます。
とはいえ、問題を創り上げてしまったり、堂々巡りで囚われしまったりしても、その体験(構造)は反転すると、大きな創造エネルギー、飛翔の元となり、真の解放の燃料として重要になる場合があるのです。
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