人は性悪か、性善か。

天使(神)と悪魔とか、天国と地獄とか、ポジティブ・ネガティブとか、人の心には二面性(多面性)があると言われます。

どんな聖人であれ、またどんな悪人であれ、迷う心もあれば、利己的な思いにかられたこともあると想像されます。

ましてや一般人ともなれば、エゴと良心、利他と利己でグルグル巡るのは、むしろ当たり前の状況だと言えましょう。

と、普通に考えれば、人というのは、よい心(良心)もあれば悪くもなる(悪意もある)のが日常、普通のことだと、冷静に見ることもできるのですが、これまた人の性(さが)と言いましょうか、たいてい人は自分中心に物事を見てしまいますので、自分にとっていいことが続けば、世の中はいい人ばかりの良心で満たされた世界だと思ってしまい、また不幸の連続だと感じている人は、世の中、いい人などいない、みんな自分のことばかり、ひどいやつらであふれかえってやがる・・・なんて思ってしまうことでしょう。

一般論としても、人は性善説か、性悪説なのかで議論が交わされてきた歴史がありますし、そういうことは、たくさんの物語のテーマにもなっています。

気弱な優しい人とか、ナーバスな人、スピリチュアルや精神世界を志向する人の多くは、どちらかと言いますと、世の中の善を見ようとする傾向があり、人は信頼と愛で結ばれるはずと思い込んでいる節もあるのですが、逆に、人々の悪しき心や利己的な行動が目について、嫌悪感を必要以上に覚える人もいます。

だからと言うのではありませんが、私は、むしろ、「人の性悪説」を採用したほうが、生きやすくなる人が多くなるのではないかと思うところがあるのです。

それは、深くはグノーシス的な思想と結びつき、その思想を受け継いでいると考えられる(あくまでひとつの説ですが)マルセイユタロットにて探求をしている者には、自然に起こってくる考え方でもあります。

ただし、ここで言う「性悪説」は、「そももそ人は悪人である」とか、「善をもって生まれてきていない」とかの意味ではありません。

むしろ善を持って生まれてきている可能性も高いのですが(性善説に近い)、残念ながら、現実次元(普通の生活レベル)においては、ほとんどの人は、本当の意味で人のことを労ったり、気遣ったりすることはないという意味なのです。

もちろん、優しくしてくれる人、自分のことを大切にしてくれる人も、実際の関係性の中ではあるでしょう。

しかし、「黙っていても、いつか自分のことはわかってくれる」とか、「本当の気持ちは伝わっているはず」「きっと私のことは察してくれる」だとか、淡い期待とでも言いますか、相手に対して、相手が変わること、わかってくれることを期待しても無駄であることが多いと理解したほうが、楽な面もあると言うわけです。

言ってみれば、普通、人は自分のことしか考えておらず、利他のようで利己が基本として見るほうが楽になるということです。(一見、利他のように見えても、その人が利他行動をすることで、自分が満足しているのなら、利己だと言うこともできます)

この利己に傾く基本構造を「性悪」気質と見れば、人の性悪説になるわけです。

利己と言えば、聞こえは悪いかもしれませんが、しかし、これは、考えてみれば、実は当たり前で、利己というのを「利個」、あるいは「個人・自分・個性を中心とする思考、感情、志向」と見れば、この意味もわかると思います。

私たちは一人一人、違った世界観・個性で生きていますから、真の意味で同じ次元(同じレベルとオーダーで統一された世界観)においての、相互理解はないのです。

たとえ同意した、共感したと言っても、それは、あくまで個人個人の中での思い込みによる同意であり、幻想とでもいうべきもので、双方では、実は厳密には違った理解・同意をしているはずです。

ですから、結局は自分がどう思うか、感じるか、の世界に生きているわけですから、自分次第ということが、ほとんどのパートを占めるのです。

ということは、(同じ次元においては)、他人は自分のことを真に理解することはないと考えたほうが合理的になります。

あえて言えば、自分の一面(その人に見せる一面、相手が見る一部の自分)を同意させる、承認してもらうみたいなことになるでしょうか。

従って、相手にわかってもらうおうという努力をし過ぎると、自分が消耗し、時間とエネルギーもかなり浪費することになってしまいます。

それよりも、「ああ、これはいくら言ってもダメだな」と割り切って、自分のしたいことや、実現したいことに集中し、方向転換したほうが有意義な場合もあるわけです。

もっと簡単に言うと、「人がわかりあえない部分があることを、自分は認める」ということになります。

人に理解してほしい、愛をもって共感、共通理解に至るはず、というのも、自分の思い込みや幻想ということがあるのです。

さらには、それも自分の欲求であり、実は傲慢なところから出ていることもあります。(他人に承認してもらえないと自己の存在が確立できない、安心できないというものだったり、自分は他人より優れていなければならないというプログラム・データのようなものだったりする)

そして、ここも重要なところですが、人は認めてもらうこと、理解してもらったと感じること、共感や同意してもらうことなどに、快感を得るわけです。

まあ、愛されたり、賞賛されたり、承認されたりしたら、人は気持ちいいとなる(感じる)のですね。

「気持ちいい」「心地よい」と感じることは、脳内ホルモンなど、快楽物質も流れていて、少なくとも、気持ちよいという経験を実感してしまいますので、それを繰り返そうとする、また味わいたいと思うのも、人の性といえば性です。

これがルーピングしてしまうと、中毒化症状も考えられます。

ところが、現実次元においては、人は自分(個別)のことが中心という利己の基本構造にありますから、なかなか承認してもらえたり、同意してもらえたりすることも少ないわけです。

ただ形式だけなら、それも少なくはないのですが、たとえ共感してもらえたり、認められたりしても、一時的であり、また、どこかで空虚なものを感じてしまうこともあるのです。

それは、本質的には、同じ次元で理解しあえないということに、実は気づいているからです。(表面的な、利己同士の契約同意のようなものに過ぎないことを知っている)

そう、言ってしまえば、自分の本質、根源においては、人は普通の生活レベルにおいて、ほとんどが利己であることを認識していて、それは利己を「悪」的にとらえれば、言い換えると、「性悪次元に生きていることを知っている」ということになります。

この意味において、私たちは普通に、みんな性悪気質で生きている、性悪説だと取ることができます。(笑)

しかし、さきほど述べたように、「本質」の次元では、すべて知っているので、真の意味では、やはり「善」でもあると言え、人は高次において性善(説)であると、表現してもいいのではないかと思います。

スピリチュアリストは、この高次的・本質的次元で人を語りますので、愛や平等、自由、性善説的な視点となるのです。

ただ、現実次元においては、そうもいかないのがほとんどの人間なので、利己的な世界観で生きることに、スピリチュアル的な思い持つ人、優しく・ナーバスな人は苦しむのです。

天国はこの世にある(深い統合的認識や感性、高次の精神・霊的構造を体感する、その一瞬の状態にある)のかもしれませんが、通常は利己と分離、競争の修羅的・悪魔的・地獄的世界にいるのが普通だと思うと、そりゃ、苦しいのは当たり前であり、流行した言葉で述べると、他人のことを忖度(笑)し過ぎるのはまずく、それは、ますます自分をつらくさせ、苦しめることになるのです。

これは、愛や統合の世界がないと言っているのではありませんし、人がまったくの性悪のままだと言うわけでもありません。人の本質は愛であり、その可能性はすばらしいものだと考えています。

この、人の性悪的な認識・理解からが、実は性善に戻るスタートになるのです。

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