「悪魔」の選択
マルセイユタロット(に限らずでしょうが・・・)は、実はどのカードも解釈には難しいところがありますし、その反対に、シンプルに見るとすれば、ワンワードで示すことも可能です。
それでも、どうしてもシンプルに考えたり、読んだりできないカードがあるのも確かです。
代表的なものでは、「月」のカードがあります。また、別の意味では、「悪魔」のカードも、解釈や意味の取り方が難しいと言えるかもしれません。
「悪魔」を単純に悪いカードとして見ると、それほど困難ではないのですが、「悪魔」にポジティブな意味を見出したり、深い考察をしていったりするとなれば、一筋縄ではいかないカードとなります。しかし、そういう見方こそがこのカードの極意を知ることにつながります。
それで、今日は、この「悪魔」のカードについてのリーディングの一考察として、比較的ポジティブに見るもの(のひとつ)を取り上げたいと思います。
「悪魔」は、ここでは詳しく解説しませんが、人間の欲求とその表現、及び充足(満足)と関係し、悪魔自体は高次の存在でありながら、低次なものに親密性を持つ影響と力があります。
言い換えれば、私たち人間の、低俗なものも含む、欲求をかなえさせようと刺激して来る存在です。
これを悪い意味(目的)でそうしているか、あるいはいい意味(私たちの成長や解放につながる目的)なのか、さらにはまったく混沌としていて、目的も何もなく、ただ悪魔自体の習性や好みとして行っているのか、それは悪魔に聞いてみないとわからないのかもしれません。(笑)
しかし、このように、悪魔の目的を多方面から考えることで、「悪魔」のカードをネガティブなだけではなく、ポジティブな意味や、高次覚醒のための支配(介入)と見ることも可能になるのです。
ところで、私たちは、この前の「聖性と俗性」の記事ではありませんが、純粋で利他的な思いで行動する場合と、わがまま・利己的な意味で選択するようなことがあります。
また、やってはいけないことや、この選択は悪いもの、欲求に飲まれているものだとわかっていても、やってしまうようなことがあります。
もちろん、法律に反すること・犯罪、人に多大に迷惑がかかることなどは、行うべきでもありませんし、カルマ的観点、自己を貶める意味でも問題と言えますが、欲望・わがままにつき動かされているのか、直感的に正しいと見ていいものなのか、どちらとも判断がつかない時というのは、結構あるものです。
そういう場合、人によもよりますが、冷静になりすぎず、衝動的にも似た、自分のやりたいと思う方向を選択したほうがよいこともあるのです。
それがたとえ、自分の欲望・欲求・エゴから出ているものであっても、です。
大なり小なり、実は人はエゴ(個としての自分の思い)で判断しているものです。
それが世のため、人のための思いから出ているものであっても、結局、それをして喜び、満足するのは「自分」ですから、大きな意味では、すべてエゴの選択と言えます。
ですから、それが正しいものか、欲望やエゴから出ているものなのかどうかと精査せず、単純に自分の(したい・やりたいという)思いに従うという選択もありだと考えられます。
そうすることで、自分の欲求を満足させたうえで、次(のステップ)に向かうことができたり、別の自分を覚醒させたりすることにつながる(場合もある)からです。
いわば、自分の飢餓感をなくすための充足を実際に求め、行動するということになります。これが、「悪魔」の(言い換えればエゴに従う)選択(笑)として、考えられるものなのです。
そして、自分の飢餓感は、実は自分のものではないこともあります。
親族から受け継ぐ、やりたかったことなのに断念してしまった残滓、心残りデータとか、ある同じ思い(悔いを持つ)集団的感情データ、過去世からの思い残しなど、自分(の心と魂における保存部分)が、成し遂げられなかった悔恨や飢餓を持っていた場合、それが今の自分の思いとして、肩代わり、プログラム再生していることがあるわけです。
それが「欲望」のようなものとして、自分の感情に湧き起こっているというケースもあると想像されます。
ですから、飢餓感を実際的に満足させることは、データの消去に役に立つ場合があるのです。
ただし、まさにただの自分の欲望から来ているものだったり、その飢餓感の解消が、別の次元にあるもの(例えば親の愛情を得ることであれば、それを自覚しない限り、恋愛という仮の愛情充足劇を繰り返しても、満たされないことになります)だったりすると、逆効果になることもあります。
ですが、自分に縛りをかけすぎていて、自分の欲求にすら気づけず、ひたすら他人や外の法(ルール・規範・社会常識への模範)に従って来た人にとっては、エゴだろうが何だろうが、自分のしたいことにつき進むという、今までの自分から見れば、まるで「悪魔のささやき」に耳を貸す(笑)ような選択が、自己の解放に寄与することがあるのです。
少なくとも、自分を縛っていた強固な綱(常識的思い込み・自分ルール)が緩くなるのです。(「悪魔」のカードにはつながれた二人の人物がいますが、彼らの綱は緩いです)
ええーい、もうやっちまぇ! もうどうでもいい! 何が起こるかわからないけど、やりたいからやる! 好きなことをして何が悪い! そう私の悪魔(本能・エゴ)がささやくのよ! という声に従った選択は、無茶苦茶だからこそ、混沌と(定番の)破壊を生み、いいも悪いもない、それでいて実は豊潤なる世界に誘ってくれる作用があるのです。
この誘惑と勧誘に、悪魔が登場します。
面白いことに、マルセイユタロットの並びでは、「悪魔」の次に「神の家」が来るように(数的に)配置されています。
そう、「悪魔」を見なければ、「神」は現れないとも見えますし、「神」そのものが「悪魔」でもあり、またその逆も言え、結局、すべては神(神性・完全)の表現のひとつ(神のアバター・化身として悪魔も存在する)と考えられるのです。
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