(心)霊的次元の和解、救い

今日の話は、一段とファンタジーと言いますか、狭義のスピリチュアルな話となります。

マルセイユタロットの絵図の語るところによれば、この世界はいわゆる現実、普通に私たちが生まれて死ぬまで過ごす世界だけではなく、肉体を超えた死後の世界のような、(心)霊的世界があると示されています。(もっとも、これも受け取る人の考え方に左右はされますが)

ところで、私たちが自分を自分だと認識し、他人を自分とは違うその人だと思う状態というのは、主体と客体感覚を伴う「自我意識」を持っているということになります。

精神世界・スピリチュアルな世界観でよく述べられているように、人が宇宙・大元・「ひとつ」としての統合次元まで至ると、そういった自我意識は消失するものと考えられています。

言わば、統合されればされるほど、(哲学的・宗教的に表現すれば)悟れば悟るほど、人の意識は希薄というか、抽象的なものになり、自分や他人を分けて認識することがなくなっていくもの推測されています。

ですから、そういった究極の次元からの視点では、個人の悩みも喜びも、また他人を意識する世界すべても、幻想である(認識として存在しない)という説になるのは当然です。

そもそも、喜怒哀楽の感覚というのも、比較対象や波のような上下左右の「差」があって初めて「それ」として表せるものでもあり、そういった差異がない世界・意識においては、すべてはあってないという、不思議な超越状態とも考えられますから、現実での結果やプロセス、思いに至るまで、個人としての意識は無意味であると言えます。

しかし、現実問題、私たちは究極まで悟っていないのが普通ですし、毎日起こる出来事、過ごす日々、環境において、感覚・感情・思考様々に変化し、悩みや苦しみ、そして喜びや楽しみも味わうことになります。

それに意味がないと言っても、意味があると世界(という設定・条件)から逃れられない(あるいは選択して来ている)私たちにとっては、究極次元で語れることに違和感があるのも理解できます。

そこで最初の話に戻ります。

先述したように、究極のひとつの次元、大元、ひとつであり全体しかないという状態(超越意識状態)と、自我意識を持ち、現実で生きている私たちの普通の意識状態との間に、中間としての意識層もあるのではないかと想定するのです。

これが死後の世界とか、(心)霊的世界(心魂の世界)と言ってもいいかもしれません。

その次元では、人は肉体を持たないので、肉体(物質・現実)次元での欲求・縛りからは解放されるものの、自我意識が完全に消失してるわけではなく、データのようなものとして、自分が現実世界でどのような人間として生き、どのような自分以外の人たちと関わり、心に思いを残してきたかということは存在していると見ます。

まさに意識的に、ひとつ・全体に至っている状態と、自分と別々の人がいるという状態の中間と考えられます。

この次元で重要なのは、意識が肉体から解放されていることであり、つまり物理的・時間的干渉、制約から完全ではなくても、ほぼそこから逃れられていると考えられることと、より、「素」の状態、心と個の魂同士が相互に、しかもダイレクトにアクセスしやすくなっていると思えることです。

それは心のデータ的に、ほとんど隠し事ができずに、自分と他人とコミュニケーションできる状態だと言えます。もっとわかりやすく言えば、誰もが裸のつきあいみたいになる(笑)ということです。

これはかなり恥ずかしいことでもありますが(^_^;)、ほかの人の真意が理解できることでもあります。

現実世界では仕方なくこうしていたものの、それは本意ではなかったとか、本当は謝りたかったとか、あなたを愛していたけれど、現実世界ではどうしようもできなかったとか・・・現実での物理的・空間的・時間的制約、あるいは肉体的・生存的欲求のための強い自我から来る心情的虚偽や方便を使ってしまったことなどが、中間の心霊的状態ではその干渉がなくなり、ほぼ魂の真意のようなものが露わになるということです。

先にも言ったように、これはかなり恥ずかしかったり、厳しいところでもあったりする反面、やっと本当の気持ちが確認でき、個の魂としての交流ができる癒しや愛を実感できる次元だと思えます。

現実では報われなくても、この世界、この次元では報われる可能性があるという、救いの世界でもあります。(反対に現実よりシビアに真実がわかる、さらされるという次元でもあります)

ですから、こう思うのです。

現実世界では何らかの事情で交流できなかったり、別れてしまったり、誤解があって対立したりした人でも、自分の真意は忘れず、自分も相手も責めず、いつか魂の(霊的)次元で癒し合い、和解することができると信じれば、この世が苦しみの世界であっても、生きながらすでに救いの気持ちも生じてくるでしょう。

そして、だからこそ、一気に全体次元、ひとつの統合次元に向かうことには抵抗してしまう部分も、人にはあるのだと感じられます。

言ってしまえば、できるだけ現実次元に留まりたい、せめて心霊的次元で和解したり真意を伝えたたりしたいという意識です。

個としての意識がなくなれば、それは究極の救済でもあるのでしょうが、個人として現実次元での生きた証しのようなものも消えてしまい、まだかすかに個の意識が残る段階での、その昇華や浄化を行いたいという強烈な望みのようなものがネックになると思われます。

そういった意味で、現実次元、心霊的次元、超越・統合次元の順で、できるだけ自分が思い残しをなくしたり、調和を働かせたりするということが、人類全体の進化にも関わってくるように感じます。

現実次元においては、簡単な言葉でいえば、できるだけ、「仕方ない」で済ますことのないような人生を送っていきたいというものになりますし、私たちは決して現実次元に生きるだけの存在ではない(望み・救いは多層の次元の目的と用意がある)という思いです。

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