マルセイユタロット グノーシスの道
10月になりましたので、最初に今後のお知らせなど少しいたします。
まず、秋に毎年やっておりますマルセイユタロット講座(基礎ハイクラスコース)は、少し遅めのスタートで、今年は11月からを予定しています。全6回のコースで、来年にまたがることになりそうです。
今なら講座受講を検討されている方のスケジュール相談に応じられますので、お問い合せいただければと思います。
それから、今年後半は、講座修了者のアフターフォローにも力を入れており、すでに修了者用メルマガではお知らせしましたが、修了者への個人面談(相談)など、希望していただければ実施いたします。だいぶん前に受講された方でもOKですから、一度ご連絡ください。スカイプでの面談も可です。
さて私自身、マルセイユタロットを通して皆さんと一緒に考え、開発していきたい思っているのが、グノーシスです。
グノーシスとは何か?については、ここで語るとなれば大変ですので、今はいたしませんが、簡単に言えば自身の内にある神性の認識・覚醒ということになります。別の表現でいえば、私たち自身を閉じこめているものからの自己の真の解放です。
ただ、単なる昔の思想を追うとか、スピリチュアル的な抽象性の逃避に終わらないよう、現代性・現実性・具体性を考慮して、グノーシスを目指したいと思っています。
そのため、タロット修了者の間で、グノーシス(勉強)会を開催し(希望者のみ)、マルセイユタロットの象徴と教義にふれ、学んでいる方と一緒に、私たちの実生活の中で、いかに自分を目覚めさせ、解放し、また現実との折り合いをつけていくかを検討したいと考えています。
この世の中はすばらしいものでもありますが、生きている中で矛盾や生きづらさ、理不尽さを感じる人も少なくありません。
私自身、幼い頃から、生きること、生について疑問に思うことがありました。生を否定するのではなく、それどころか、それは先述したように、すばらしいもの、ワンダフルなものであるのも確かです。
しかし、多くの人が真に幸せとは言えない状況であるのも否定できず、お釈迦様が指摘したように、生・老・病・死の苦悩を中心に、私たちは悩み苦しむことも多く、そもそも今の世の中のシステム自体にも万人に幸せとなるようにはできていない部分があるのではないかと感じられます。(それが意図的かどうかは別としても)
今、個人の生き方が問われ、自分らしくあること、個として個性的に生きることがよく言われます。
またスピリチュアル的には、自分が世界を創造しているものなので、自分の世界に(つまり自分自身が)平安と幸せを実現させないと、いくら外側の世界に働きかけても意味はないと言われます。
このことから、まずは自分が大切、自分自身が「個」として幸せであり、充実することで、周囲も自然に調和、平安へど向かうと考える人も少なくありません。むしろ、ブログとかSNSなどで取り上げられる今のトレンドと言ってもいいくらいです。
それは一理あると私も考えますが、一方でどこか作為的で独善的な匂いもしますし、現実に、私たちは外の世界を無視することができないばかりか、内と外(自分と他人)の世界を実感し、影響しあって生きています。
もしすべてが自分だけの世界だとしても、それを認識する力と方法が必要です。
マルセイユタロットを見ていて思うのは、この内と外の問題も含めて、結局、認識の力が問題になっている(認識の未熟、偏り、不足状態になっている)のではないかと想像しています。
本当の意味での知性(いわゆる記憶力とか、学力とか、一般に言われる頭の良さとかは異なります)の力といいますか、それが不十分なのが私たちの今の状態ではないかと思うのです。
内と外、自分と他人に実感性があるのも、実は認識の問題であり、本当は統合できる観点があり、それに至れば、スピリチュアルの方のいう、世界は自分が創っているというのと、現実感覚の自分と他人がいるという感覚との隔たりがなくなっていく(本質的に同じものであり、見方の違いのようなものとしてわかってくる)のだと考えられます。言ってみれば、自分と人が真に共有できるわけです。
例えば、「愛」という概念がありますが、情緒・感情的な愛と、客観性を伴う、数学的ともいえる愛の質は、同じ部分もありますが、やはり次元が異なるものと思えます。
タロットの4組でいえば、風・水・火・地の愛の概念があり、水的な愛と風的な愛では違うのです。
どれが正しいとか間違いとかではなく、そのどれもが愛なのですが、ひとつの水とか火とかにこだわっていれば、そこはひとつだけの世界で狭く、最終的には4つを統合した観点で見ないと、本当の愛(高次の愛)はわからないと言えます。
私たちは恋愛で燃えている時、相手とひとつになりたい、ずっとこの愛は続くもの、続いてほしいと願いますが、一方で、肉体は衰え、経済や現実生活という側面で、時に愛の炎も揺らぐことがあります。
別れてしまうことは悲しいことではあっても、愛が消えたわけではなく、形を変えて愛は存在し、また情愛的には冷たいように思えること(選択)も、大変高いレベルでの愛から見れば、自他ともに愛に満ちた行為(選択)かもしれないのです。
いわば、神目線と人間のエゴ的な感情レベルとでは、本質(作られる素材)は同じものであっても、次元は大きく異なって、その選択に自ずと違いが生じるのです。
話を戻しますが、結局、グノーシスに目覚めれば(進めば)、人はよいもの、正しいもの、理想への認識も変わって、選択と行動も違ってくるようになり、それは今までの常識レベル、社会とも異なってくるわけです。
ひいては、それが世界全体への変容にもつながっていくと考えられるのです。
マルセイユタロットはそのことを思い出し、私たちに神性なる選択と次元のエネルギーを降ろしていく象徴ツールなのだということです。
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そして、つまるところ、グノーシスは自己と世界の救済論になるのです。
マルセイユタロットでは、戦車、節制、世界の三枚がつながるような印象になります。
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