シンクロニシティのメカニズムと重要性
前にも書いたことがありますが、今回も「シンクロニシティ」について、書きたいと思います。
シンクロニシティ(以下、シンクロと省略します)は、簡単に言えば、「意味ある偶然の一致」と表現することができるものです。
それは、今の常識的な目線での合理的・科学的な因果関係を超えて、およそ結びつくことのないもの(無関係と思えるもの)同士が関係し合うように見えてくる現象ともいえます。
スピリチュアルや精神世界に関心のある人には、シンクロについては、「非常識」なことなのに、むしろ「常識」的に考えられており、シンクロが起こる、シンクロに気づく、シンクロを起こすことが、すぱらしいことのように思われている面もあります。
しかし、ここで問題となってくるのは、そもそもシンクロの定義もあやふやなうえに、かなり思い込みによって、なんでもかんでも「シンクロ」現象にされていないかということです。
例えば、ある場所に行ったら虹が出たとか、神社に行ったら風が吹いたとか、自然でよくある出来事であっても、自分には意味あるお告げや知らせのように感じ、そのタイミングの良さからシンクロが起こったと言っている方をよく見かけます。
上記の例で言うと、虹が出た場所は、滝の近くだったり、雨上がりだったり、日光と水分の関係で、虹が出やすい状況のところだったかもしれませんし、風が吹いたと思う神社も、なんのことはない、単に風の強い日だったのかもしれません。(笑)
たとえ凪いでいる日だったとしても、神社の構造上、拝殿と神殿の配置で、神殿から拝殿に風が吹きやすい構造(山が奧にある、位置に高さの違いがあるなど)ことになっていたのかもしれないのです。
それでも、タイミングはどうなるんだ?ということですよね。
たまたまというのは確かに偶然だけれども、自分が来た、祈ったタイミングで風が吹いた、虹が出たというのは、タイミングが良過ぎて偶然とは思えない、そこに何らかの意志が働いていると感じる、という人もいらしゃると思うのです。
そう、シンクロで重要なのは、まさに本人の思うタイミングなのです。これは、マルセイユタロットでは「運命の輪」で象徴されることでもあります。
超越的ではなく、心理的な現象としてこの場合のシンクロを考えれば、何か悩んでいたり、特別なことを期待していたりして、ある重要(と本人が思っているよう)なポイントに来た時、まるでその答えか、ある知らせを示すかのように、何かが起こったということは、結局、自分の質問に自分が答えを出そうとして、自覚できない意識(とりあえず「潜在意識」の部分と言ってもいいかもしれません)が、風が吹いている時、虹が出ている時に顔を上げるように(そのことを気づけるように)、感覚・センサーのスイッチをオンとするようし向けたと考えられます。
私たちの感覚は、無意識のうちに開いたり、閉じたりすることができ、意図をもって感覚や意識を集中させたり、解放させたり、遮断したりすることが知らされています。
言ってみれば、自分には見えていないところでも、ほかの感覚では見えていたり、わかっていたりするわけで、わざわざタイミングを計って、さも答えが出たかのように、それまで閉じて感じていなったものを感じられるように、(自分が)させたのかもしれないのです。
どちらにしても、タイミングが重要なのがわかります。そしてこのタイミングは、自分が中心(自分が計っているわけ)ですから、他人がとやかく言えるものでもないのです。
要するに、ほとんど、自分の世界(思い込み)で成立するのが「シンクロ」と言えます。
また、無関係だったものを関係あるようにさせる知識・解釈が、たとえ妄想であっても増えれば増えるほど、いくらでもシンクロを起こす、もしくはシンクロだと思うことが可能になります。
これでは、シンクロを活かすもなにもないではないかと思われるかもしれません。
しかし、神様からのお告げのようなものとして考えるのではなく、心理的なものとしてシンクロを見れば、そこにも意味があると考えられます。
先述したように、自分で意味を見出そうと、自分自身がタイミング計って起こしているとも言えるからです。
自分の表面意識では知らないこと、あるいは混乱して答えがわからなくなっていることに対して、いわば、心の奥底ではシンプルに答えを知っている本当の自分に気づくため(知らせるため)、自らが外の現象を介して(利用して)、タイミングを計り、意味あるもののように見せかけていると考えられるわけです。
ところが、タロットをやってきますと、そのように心理次元の解釈だけではとどまらない不思議なことも起こってきます。
タロット(リーディング)は、そもそもこのシンクロを利用する仕組みがひとつにはあります。偶然引いたタロットカードに、意味を見出すからです。
私がタロットをやってきてシンクロについて思うのは、思い込みとは違う次元のシンクロもあるということです。
まあ、全部思い込みであると言ってしまえば、それまでではあるのですが、やはり、自分に感じる強烈なシンクロというものがあり、それはどう考えても、心理的次元さえ超えているようなインパクトあるようなものなのです。
「これ(このシンクロ)はほかのものとは違うぞ、これぞシンクロ中のシンクロだ」というやつです。(笑)
それは自分ではっきりとわかるものなのですが、同時に、きちんと説明すれば、他人からもすごい(シンクロ)と思うことのできるものです
つまり、主観性と客観性、両方において偶然の必然が成り立つ現象・ストーリーです。
たいていのものは、さきほど言ったように、思い込みの世界で考えられるものですから、ほぼ主観性のシンクロです。
けれども、上述のような強烈なものは、客観性さえ持つのです。
この場合、自分が引き起こしているものと考えるにしても、客観性を持つ分、たくさんの人を含む、巨大なフィールド、意識を巻き込んでのものだと想像できます。
ということは、かなり自分と他人、または社会との対比における、自分の使命とか立ち位置とか、特色を示すシンクロかもしれないのです。
いわば、今の自分を超えるため(成長・拡大のため)のシンクロとも言えましょう。
それは、単なるひとつの偶然ではなく、積み重ねたものが、やがてひとつの光となるような、真の象徴的物語として解き明かされるようなイメージ・感覚です。
シンクロを意識していく最初のうちは、何でもシンクロにしてしまって、ワクワクするようなものになりますが、やがて偽物といいますか、こじつけで、自分の期待感や欲望でシンクロにしていたことに気づく過程を経て、逆にほとんどのシンクロはあまり意味のないものと認識できてきます。
それとともに、今度は、極めて強い、本当に活かせるシンクロ、真の自分へのメッセージ、開花として、紡がれるものが出てきます。
結局、独りよがりの思い込みだけではなく、冷静さ、客観性をも伴いながら、それでも残る主観的なシンクロの感覚に意味を見出すのがよいのではないかと思います。
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