今年を振り返り、来年を占うタロット
年末年始ともなりますと、占いの世界では、来年(年が明けますと「今年」となりますが)の占いがさかんになります。
前回の記事ではありませんが、タロットにおける「占い」と「リーディング」の違いで分けると、「占い」は未来(の自分)を知りたいと思ってカードを引き、「リーデイング」は、現在か過去についてタロットで見るという傾向があります。
リーデイングにおける「現在」か「過去」(を見る)というのは、結局、自己分析のツールで使うということになって、それには未来よりも、今、そして現在を作ってきた「過去」のデータを見ようとするわけです。
もし過去から今に至るものの中で、もうこれからは必要でなかったり、バージョンアップして修正するものがあったりすれば、今後に合うように変えていくことが求められ、そのためにも過去を振り返り、調べること(過去のデータに気づくこと)は必然となるわけです。
一言でいえば、浄化(破壊でもあります)と創造のプロセスです。
このように、カウンセリングや気づきが中心の「リーディング」では、過去のカードを読むことのほうが重要なのです。
一方、未来がどんな風になるのか、占ってみるのも楽しいことです。
ちょっと先を覗いてみたい・・・そんな気持ちでドキドキとワクワクが占う(占ってもらう)人に訪れます。もちろん、占いで出る未来も、あくまで選択肢のひとつ、今の意識や、運勢的なものでの流れに過ぎず、確定されたものでないのは当然です。
ということで、タロットをやっている人、タロット持っていて、占いやリーディングが少しでもできる人は、未来(来年)の占いをするもよし、今年の分析をリーデイングするもよしです。
タロットをやっていて思うのは、タロットは確かにカードに絵柄があって、ある思想や象徴性を示唆していると見て、深く考察したり、目的達成に活用したりするものでもありますが、同時に、「愚者」のカードに代表されるように、まさに囚われなく、「自由」に飛翔すること、こだわりをなくすことにも活かされるものです。
いい・悪いとか、浅い・深いとか、現実・精神とか、高次と低次とか、とにかく何かをはっきり決めなくても、あるいは、どちらでなくてはならないとか、何かでなければならないとかではなく、そういう概念自体をふっ飛ばす、ぶっ壊す、みたいな感じがタロットにはあります。
「ま、どっちでもいいじゃん」とか、「まあまあ、そんなに決めつけずとも・・・気楽に行きましょうや」みたいな、そういう感覚にもならせてくれるものです。
面白いことに、何事も深く道を究めようとすると、最終的には、こだわりがなくなって、求め極めてきた「道」そのものも、ものすごく広くなったり、なくなってしまったりするものです。
まるで、子どものような心になって(戻って)しまうと言いますか。
よく、物語などでも、その道を極めた老師のような人が、とても無邪気・純粋で、一見バカみたいに見えることもありますよね、しかも思いっきり俗物的なこともあったり・・・(ドラゴンボールの亀仙人みたいな(笑))
実は学べば学ぶほど、バカやアホになることがよいのではないかと、最近思うことがあります。
もう少し違う言い方をしますと、自分が何も知らないこと、どこまで行っても知る(新しく得る)ことはないこと、そして、実はすでにもうすべて知っていること、それを思い出そうと、他人や外界という設定を利用し、自分自身を遊ばせているということ、そのような心境(になる)のことを言っています。一言で言うと、「自由な存在になる」「自由に同化する」ということです。
だからと言って、知識や学習がいらないと言っているのではありません。残念ながら、私たちは生まれた時に、すべて忘却するルールにしているようで、だからこそ、知りたい、何かを得たい、ということの衝動が刻まれている宿命にあります。
しかし、これを好意的に解釈すれば、どこまで思い出し、与え、与えられるという「ゲーム」を、いかに楽しめるかに身を投じているとも言えます。
思い出す(封印を解除する)ことが、学びの形式を取っているわけです。学びと言っても、座学のようなことだけを指してるわけではありません。あらゆる人生経験そのものが学びでもあるわけです。
ただ、漫然と生きていても、思い出しが非効率に終わることもあり得ます。まあ、それはそれでゲームの楽しみ方のひとつであり、一人一人、やり方・楽しみ方は違うものですから、ただ生きるというだけでも大きなことだと思います。
しかし、ゲームにもコツがあるように、意識的に思い出すこと、つまり自覚的に学びをしていくこともよいかと思います。
そのひとつが、マルセイユタロットの象徴性を活用することだと私は考えています。
そして、実は、人間が通常の生活では思い出すことができない極めて重要なものがあると考えています。
それがグノーシス(神性なる認識・真の叡智)に関わることです。
人はまず現実的(物質)な安定や充実を図るために生きようしますが、次第に精神的、心の安定と充実を求めて生きるように変わってきます。ただ、物質の充実が精神の充実になり、その逆の、精神の充実が物質の充実になってくるという、両者は切っても切れない関係にあります。
前者(物質が精神を満足させる)は常識的にわかると思います。端的に言えば、お金がたくさんあれば、何でも買えるし、働かなくても済んで、心が満足するという方向性です。
一方、逆はわかりづらい人もいるかもしれません。
心が満足すれば、物質は充実するのか?とは思いにくいでしょう。
確かに、心によってお金やモノが魔法のように突然増えたりはしないですが、足るを知るという言葉があるように、精神的に満足な状態になれば、必要なお金とモノも、それに応じたものに調整されます。
ということは、例えば以前は月100万円ないと十分でなく、心も不満だったという人が、生き方が変わり、モノによる心の満足ではなく、まず純粋に心が満たされたり、充実させたりするのを先にしていくと、必然的にモノやお金は以前より少なく済むようになり、月15万円でも心は満足するというようなこともあるわけです。
モノから心へという方向性の人にとっては、それは「ない者のひがみ」みたいにとらえられるでしょうが、心の満足度は、必ずしも、モノやお金のあるなしで決まるわけではないのです。
とはいえ、モノから心の方向性も悪いわけではなく、モノがなければ生きていくのも不自由などころか、食べ「もの」でいえば、それを取り込まないと死ぬ生物である人間は(食べなくても生きられるという人もいますが・・・一般的に見て)、物質・モノ、それを入手するために必要なお金は、現代ではなくてはならないものでもあります。こちら(モノ・お金の充実で心が満足)の方向性を目指すのも、基本で当たり前です。
だから、モノによる心の充実を無視するわけにはいかないのです。
それで、話を戻しますが、結局、このような物質と精神(心)の両(双)方向性、統合的視点を持ち、思考と感性がともに極まった時、ひとつの新たな世界が見えてくるような仕組みになっていると、タロット的には考えられます。
どちちかに過度に傾くことなく、両者を同じものとして見ることの出来る観点を獲得するのが重要と言えます。
それは、内と外という分け方でも言えることで、自分(軸)と他人(軸)とも表現でき、苦痛・努力と快楽・簡単という見方もできます。
そのどちらが正しいわけでもなく、あえて正しさがあるとすれば、それはその上(統合視点、時には下の場合もあります)にあり、今、葛藤している自分自身にはまだ見えていないところだということです。(これは、マルセイユタロットの「恋人」カードの象徴にもなります)
逆に言うと、悩みや葛藤は、二元、ふたつの方向(選択)を超える示唆があるということなのです。
と書いてきところで、最初の占いとリーデイング、過去方向と未来方向の話に戻ります(笑)が、タロットを持っている人は、この年末、今年を分析し、何を学び、何を得たか、あるいは、こだわらずに捨てられるようになったかという経験や蓄積の視線で、ましめに振り返って気づきを得ること(すなわちリーディングすること)と、反対に、来年はどんな年になるのかな? どんな年にしようかな? 吉かな?凶かな? いい人と出会える? 仕事はうまく行くの? などと現実的かつロマンをもった視点で、楽しく占ってみてください。
両方やってみると、どちらも楽しめたり、またどちらもあまりピンとこないなあ・・・とかになったり、ま、なんとでもなる(思う)のが私たち「人間」というものですね。(笑)
さて、今年はこれで最後のブログ記事となります。
つらつらとマルセイユタロットから得たり、感じたりしたことを書いて参りました。今年も駄文におつきあいくださり、ありがとうごございました。来年もまた、これまでと同様のペースで書いて行きたいと思います。
どうぞ、皆様、よいお年をお迎えください。
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